前田紀貞建築塾 実務プロコースの記録

前田紀貞建築塾での「実務プロコース」の様子を追ってゆきます

実務プロコース第3回目:“コンセプトとかたち”(理論と実践)の関係とは?

さて、第3回:前田紀貞建築塾 実務プロコース今回は

“コンセプト(理論)と“かたち”(実践)の関係とは?

でした。

 

 

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これは普通考えると、

まずは“コンセプト”(理論)があって、そこから“かたち”(実践)ができる、ということになります。

 

事実、「そんなことしたら、コンセプトが“後付け“にならないですか?」
という話はよくある話です。

つまり、本来、建築が造られる時には、コンセプトがあってのカタチなのに、カタチからコンセプトが出てくるのは逆でおかしい!、と。

コンセプト(考えたこと)とカタチ(できた形)・・・
両者の関係は、往々にして、誤解されていることが部分あるように思うので、今回の話になったのだと思います。


「後付けコンセプト」という否定的な言葉も、こういう入門時にありがちな誤解から生じます。
塾長の話からすれば、

物が造られる時、コンセプトなんて「後付け」であっても一向に構わない

ということなのです。
この真意を説明します。


上のような勘違いは、
「まず頭の中にモヤモヤしたコンセプトが発生してきて、次にそれがカタチになる」
という
原因 ---- コンセプト(=頭)
結果 ---- カタチ (=手)

「原因 → 結果」
という、あまりにわかりやす過ぎる一方通行という常識に由来しているからなのだと考えられます。

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だから皆、まず最初に頭を動かして「コンセプト」を産み出すことからスタートしたがり、その後でそれを「カタチ」にすることを考えようとします。



結論から言ってしまえば、
物造りでは、「コンセプトとカタチ、このいずれからスタートしてもよい」
ということです。

前記の言い方を借りれば、
「カタチあってのコンセプト」
「カタチをコンセプトにする」
という逆転した順番でも一向に構わない、ということになります。


もうすこし言えば、

創作の中では、このふたつ(コンセプトとカタチ)はいつも互いにキャッチボールするようにしながら進められなければならない

ということにもなります。

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「コンセプトとカタチ」、言葉を変えれば「頭と手」は、あなたが創作をしているあいだ中ずっと、この両極の間で行き来や会話が成され、そういう互いのキャッチボールの中で、その姿形を時間経過と共に、順次、変えてゆくものでなくてはならないのです。
この瞬間、コンセプトとカタチは「不思議な共振」をし始めます。

これこそが、「生きた物造り」ということになります。
決して、「一方通行」だけではいけない。特に「言葉 → 形」という一方通行では・・・・。



こういうことを殊更に口に出して言うのには理由があって、前田紀貞塾長が大学の時、やはり
「最初はコンセプトからだ!」
と、相当強く考えていたからとのことです。

というより、実状はそんな生やさしいものではなく、
「自分の着想し得たコンセプトから出てくるカタチには、たったひとつの完璧な解答しか無い筈だ」
とさえ、過激な信じ方をしていたとのことです。

 

ところが、そんなふうにしていつも決まって自分が拠り所にしていた「コンセプト」というものは、それが「カタチ」に翻訳される瞬間、決まってその「カタチ」というものに裏切られ続けることになった、といいます。

決して、「コンセプト」は、そのまま「カタチ」に透明に移行され翻訳されることなんてなかったのです。


「どうして自分のコンセプトは、カタチに翻訳される際に変形を余儀なくされるのだろう?」
これには前田紀貞塾長はとことん手を焼きました。

この2つの事象の乖離を埋めるべく、敷地にヒントを求めようとしたり、床/壁/天井という建築物のシステムについて考えようとしたり、構造主義現象学にヒントを求めようとしたり・・・・・。
でもどれも、多少の助けにはなるものの、あまりうまく行くものでもありませんでした。


そこで思ったのは、
「確かにコンセプト(言葉)は変わってしまうかもしれないが、出てきたこのカタチ(建築の空間)じたいは、悪くない・・・・・・
だったら、それに見合うようにコンセプト(言葉)を少しだけ変形してしまってもよいのではないか・・・・」
でした。

最初は恐る恐るの及び腰ではありましたが、折角、得ることのできた純粋なコンセプト(言葉)を、そこで少しだけ変形・修正してみました。


ところがどっこい、驚いたことに!
このコンセプト(言葉)の変形という強行突破を実施してみると、その「変形されたコンセプト(論理)」に引っ張られ、次の段階として「カタチ」の方も自然と変形されて来るようになったとのこと。

そしてこの「カタチ」が・・・・、それまで自分でも想像だにしていなかったような、予想以上の「カタチ」(建築空間)に変貌してくれたという訳です。
そして、そして、更に、この「カタチの変形」が再々度、またまたエキサイティングな「コンセプト(言葉)の変形」を引き起こしました。

これこそが、先に「不思議な共振」と先程書いたところの意味です。



この状態は、自分の少量の脳味噌から出てくるしかなかった限界ある造り方から脱出し、自分でさえ思い付かなかった方法で物を造ることのできる領域へ、無理なくスーッっと移ってしまうことができた感さえありました。
こうして、「コンセプトとカタチ」の間には、「キャッチボール」や「共振」、すなわち「運動」と呼ばれてしかるべき力学のあることに気付いたのです。

こうして、「コンセプトとカタチはどっちが先?」なんてことではなくなり、そのいずれもがいつも共振し、常に姿を変え変更され続けてゆく運動のプロセスに興味を持つようになりました。

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頼るのは、「コンセプト」だけではなく、「カタチ」だけでもなかったのです。
そうではなくて、その両者の「間」にある、目に見えない手に取れない「運動」こそ、自分の依って建つ場所だったという訳です。
この「運動」なるものこそに、「己を越え出るひとつの契機」があるようにも思えたそうです。



世の中でもし天才と呼ばれる人達がいるとすれば、彼らの性質のひとつに、

「己の(能力の)越え方を会得している」

というものがあるのではないかと予想します。

凡人には、いつもちっぽけな能力しかありませんが、

その小さな己を何か他者なるものに託すことができ、それによってそこから創造のヒントを手に入れることができたなら・・・・
その時には、もうその人は、その人自身(の能力)を越えてしまっているのです。

その人は、その人から遠くにあるものを、ある方法にてその人の近くにまで持ってこさせることができるのです。
創造という地点では、もはやその人であってその人ではない。つまり、無我こそ創造の秘訣なのです。

時に耳にする「啓示を受けたような瞬間」とか「ブレークした瞬間」というのも、実はこういう流れの中での出来事なのではないかと思います。


こうした「託し方」には幾つかの方法があります。
前田紀貞塾長のブログやESSAYで述べているような「自然」・「誤解」・「ルール」等々、まだまだ沢山あります。
しかし、どれも「偶然性」という言葉と無縁ではありません。

人は自分の脳でコントロール可能、把握可能なものの中で、日々生きています。でも、創造者というのは、その敷居を越えて、コントロール不能な領域に入っていかねばならないのです。
この「アンコントローラブル」であることが「偶然性」でもあります。



前田紀貞塾長が学生の時、こういう流れの一旦を感じた中で、
「物を造るってこういうことを言うのかもしれない・・・」
とその時初めて思いました。
「造る」とは「自分で造る」ことではなかったのです。
極端に言えば、「己を殺す」ことでもあったのです。

ただ当時の段階では、まだまだそれは頭の中での理解に過ぎませんでした。
ただ「わかった」だけだったに過ぎなかったのです。

そして当然のことながら、未だにそれを「知る」ことはできていません。




ここに、「ヴィトゲンシュタイン」という映画からの一節を引用します。
ヴィトゲンシュタイン」とは、オーストリア生まれの論理学者であって、若い頃は、世界の一切を言葉・論理でパーフェクトに記述し尽くそうというガチガチの欲望に占領されていましたが、晩年はそこからシフトすることで、世界に関しての新しい眼差しを持ち得た人です。

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世界をひとつの論理にしようとした若者がいた

頭のいい彼はその夢を実現し 一歩下がって出来映えを見た

それは 美しかった

不完全も不確実なものもない世界

地平線まで続くきらめく氷原

若者は自分の世界を探検することにした

踏み出した彼は仰向きになって倒れた

摩擦を忘れていたのだ

氷はツルツルで汚れもなかった

だから 歩けない

若者はそこに座り込んで涙にくれた

でも年をとるにつれて彼にはわかってきた

ザラザラは欠点でなくて 世界を動かすものだと

彼は踊りたくなった

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「ツルツルの氷」 と 「ザラザラの摩擦」
「座る」 と 「踊る」
わかりますよね?

これこそが、コンセプトとカタチ、頭と手、原因と結果、に他なりません。




画像











また、20世紀初頭の(非)芸術家であったマルセル=デュシャンは、

その生涯最大の作品「大ガラス」の制作にあたって、「グリーンボックス」という作品を「対」として添付しました。
「大ガラス」と「グリーンボックス」は、「ペア」で鑑賞されるようにできています。


また、「グリーンボックス」という作品は、簡単に言えば「大ガラス」の注釈書になります。
この場合、「グリーンボックス」(写真左)が「コンセプト」であり、「大ガラス」(写真右)が「カタチ」ということになります。
作品が作品を説明する。


しかし、デュシャンにとってのこの2つの作品の関係は、そんな簡単なものでなかったことは明らかです。
マルセル=デュシャンという人は、今でも尚、まだまだ解明され尽くされることがない、というか、永遠に解明され続けるような人ですから、彼の生涯最大の作品がそう簡単にひとつの言葉に還元されてしまい理解されてしまう方がおかしいのです。
その証拠に、批評家の解釈は千差万別です。

ただ、この「大ガラス」と「グリーンボックス」が、互いに補完的な関係にあったことだけは間違いありません。
「補完的な関係」とは、キャッチボールであり、共振であり、互いが互いを包み合う関係であり、部分と全体が交代する関係とも言えます。
これらいずれもが「運動」です。

それは、デュシャンという人が何よりも古典的な芸術概念、古典的な芸術家の振る舞い、古典的な芸術の在り方を嫌悪しており、それを壊そうとし続けてきた人であったことに由来しています。

 

(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)

前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/