実務プロコース第 9回目:スタッフをどう教育するか?
第09回目:スタッフをどう教育するか?
こんにちは、AA(前田紀貞建築塾 塾生連盟)です。
そろそろ、実務プロコースも中盤に差し掛かりました。
これから益々、エンジンがかかってきそうです (^_^)v。
さて今回は、前田紀貞塾長が講義をします。
本日のテーマは
スタッフ教育をどうすればいいのか?
の回です。
ただし、これは建築の技術的な教育ではなく、
人間としての質への諭しのことです。
そしてその対象は「小規模 アトリエ系事務所」に限っての話です。
前田塾長が言うには、スタッフ教育には幾つかの要がある、とのこと。
最初に十三の項目が挙げられました。
①:徒弟制度
②:人生に対しての責任
③:親子関係・継承(末代)
④:余命
⑤:筋道と情
⑧:別に工夫なし
⑨:八十歳から振り返れ
⑩:世界(未だ見ぬ世界)を創る
⑪:強制
⑫:師
⑬:水の如し
これらについて、順繰りに話が進みました。
①:徒弟制度
大組織でないアトリエ系の設計事務所(建築家)の多くは、未だ徒弟制度のなかにあります。
時代は、コルビュジェ、カーン、ライトの時代から変わっても、この点だけは未だ健在のようです。
例えば、「オープンデスク」という制度は、日本語で言えば「書生」です。
「書生」とはそもそも、
「他人の家に下宿して家事や雑務を手伝いつつ、勉強や下積みを行う若者」ですから、
この“他人の家”を“事務所”へ置き換えれば、
成る程、これが「オープンデスク」ということになりますね。
大組織設計事務所には無いこの習慣が、何故、小規模事務所には残っているのでしょうか?
そうです、それが二番目の
②:人生に対しての責任
です。
大組織設計事務所では、
社員・従業員の「経済」に対して責任を持ちますが、
小規模のアトリエ系事務所では、このことはなかなか困難です。
何故なら、小規模アトリエ系事務所の一番の価値感は「利潤」には無いからです。
つまり、高い利潤を得ることを目的にしていない (-_-;)
本来は株式会社とか有限会社という名前で仕事をしているのですから、その本分は「利潤」にある筈なのですが、、、、、
建築関係者であれば誰もが知っているこの状況、ここが難しくも魅力的なところです。
対して、大組織事務所の一番の価値感は「利潤」です。これは何もおかしいことではないどころか、全く資本主義社会のなかでは普通のことです。
でも、、、、、、、アトリエ系事務所はそう考えないところが特殊であるし、ある時には厄介でもあり、私としてはそれ故にアトリエ系事務所を志望したともいえます。
つまり、「利潤」より「建築の創作」に重きたい、という考えです。
無論、大組織設計事務所でも、ある部分でこのことに変わりはないのですが、
アトリエ系事務所では、“それが特別に大きい”ということなのだと思います。
では、アトリエ系事務所がスタッフの何に対して責任を持つのか、といえば
それは、彼らの「人生」とか「生き様」へ、ということになるでしょう。
となれば、自ずと「所長とスタッフ」は
必然的に、親子関係に似てくることになります。
ここから次の
③:親子関係・継承(末代)
の話へ続きます。
伝えたいこと/残したいこと……、そんなものがあれば、どうしても末代まで伝えておきたい受け継ぎたい、
というのが親子の自然な感情でしょう。
アトリエ系事務所の所長はスタッフ(子供)に関して、強く強く、そう思い痛感するという事実は、
日々、アトリエ事務所にいる者であれば誰でもが感じることでしょう。
教育とか継承ということに関して、
それが自分の子供であれば、親というものは決してそこで手を抜くことはしない筈だ
と塾長。
そういう気持ちで、アトリエ系事務所の所長とは、スタッフたちに接するものだということです。彼らが、自分の息子であり娘である、と。
だから、決して妥協することもしないし、諦めることもなく、見放すこともないのでしょう。もしかしたら、通常の血縁関係よりも深いものがそこに顔を出してくる時すらあるのかもしれません。
そう考えてのお互いの付き合いであり、師からの諭しなのだと思います。
かつて「師」というものは、
自身がそうであるとは公言せずとも、自然とその人の廻りに教えを請う者たちが集まった、そういう人間のことを言いました。
でも今は、教育制度のなかで教育というものは「免許」制度になり、「免許」さえ取得すれば次の日から「先生」になることができてしまいます。
寺小屋とは、そうなってしまう以前を体現していた教えの場なのだと、塾長はいいます。
だから、アトリエ系事務所は書生の集う寺小屋のようなものともいえるかもしれません。
そこで、日々、父親(母親)の背中を見て、末代までの建築への「人生」や「生き様」を学ぶ、
そういう活気のある道場のようなものです。
④:余命
さて、前田塾長がそんなことを強く思うようになったのは、
二十代の時、あることが原因で死を覚悟せざるを得ない状況に到ってしまったから、という話が紹介されました。
塾長は幸いにもそこで命を落とすことはありませんでしたが、その時、
「今この瞬間を丁寧に生きること」、そして「末代まで何かを継承すること」という、
相反するものの大切さを知ったといいます。
前者を「情」 (母親的なもの)
後者を「筋道」(父親的なもの)
といいます。
「人生も建築も、
この相反する両面が無いとそれが本物になることがないんだ」
とのことです。
いずれにせよ、両親からいただいた生を悔いなく全うすること、
・命はあるうちに使っておこう、
だからこそ、
・今迄あった建築の焼き直しをして人生を終えるのではなく、「未来の建築」に少しでも貢献し、それを全うできるようにしよう、
ということでした。
実は、この前田紀貞建築塾というのも、
後者の視点(末代への継承)から創設されたものであったそうです。
そうか、、、、、
次の話は、この「情と筋道」について少し詳しくです。
⑤:情と筋道
中国の古に、「五常の徳」というものがあります。
それは、
仁 義 礼 智 信
というものです。
詳細はネットとかで調べればわかりますので省略しますが、
要はこの最初にある
「仁」と「義」
です。
「仁」とは、プライベート(私的な)なルール(道)のこと・つまり情
「義」とは、パブリック (公的な)なルール(道)のこと・つまり筋道
のことです。
前者は、母親が抱きしめ包み込むような深い情
後者は、父親が教え諭すような太い筋道
をいいます。
これについてはいつも、前田塾やアトリエのなかでは度々 言及され、
一瞬一時これらの視点から「私と世界の秩序」を考えなさい、的なことが言われます。
これは人生のことだけでなく、建築が創られる際にも全く同じ様に当てはまります。
「筋道」とは社会の中で生きてゆく為の、人としての方位磁針のようなものです。
例えば建築なら、これを、思想、デザイン、実施図面、現場監理、アフターフォロー、、で貫徹しようとする意志をいいます。
前田塾長は、こうして少しずつだが建築に向かう自分を精進鍛錬する努力をしてゆくことで、
・人間(生き方・判断・論理)から雑さが消える
・職業(思想・デザイン・技術)から雑さが消える
・世界との付き合い(人との互い・調査・折衝)から雑さが消える
といいます。
しかし同時に、
「ただ、本当に難しいのは情の方だよ」
とも付け加えられました……。
正直私たちにとっては、
「筋道」というものの方がなんか難しそうに思えてしまい、
「情」の方はなんとなく易しそうに思えてしまうのですが、、、、、
このへんは、私には実感としてはまだまだわからないところです。
確かに、
「仁 義 礼 智 信」
で、最初に来る文字は「仁」(情)なのですよねえ、、、、、
最後には人を「信」じ、人から「信」じてもらえることへ到るのでしょうが、
最初はやはり「仁」なのですね、、、、
もうひとつ、
「犬は “仁”がそのまま “信”になる、だから犬になるといい (^_^)」
というトンデモ話も出ました。
これはわかりやすい、、、、
でも、言葉ではわかりますが、本当に犬のようになるのは実はとても難しいことではないでしょうか……
また、
この情(仁)と筋道(義)は、相反するものでありながら、
メビウスの帯みたいに、捻れて「一」になるものである
上の絵でいえば、赤が情、白が筋道です。
そんなことも紹介されました。
赤は赤のまま、白は白のままですが、「一」の面として一緒になっています。
例えば、
・朝、事務所で「おはようございます」と言うこと
・朝、事務所の掃除をすること
というものは、普通は「筋道」(公的なルール)の方に入ると思われているかもしれませんね。
「マナー」という意味で。
でも、塾長は
「それこそが正に“情”なんだよ」
と言います。
その心は、、、、、???
「挨拶をする」というのは、書生たちが諸先輩方のことを「好き」(情)だから、
成される行為ですね。だから、また今朝もこの人と会えて嬉しい、そんな気持ちの嬉しさと清々しさの現われです。
犬が、朝、起きた時に尻尾を振るみたいに。
或いは、「掃除をする」も同じで、これまた書生が諸先輩方のことを「好き」(情)だから、綺麗な机で仕事をしてもらいたい、というふうに思うからです。
そう考えると、
朝にコーヒーを入れてお出しすることも、夜に酒の肴を用意することも、打ち合わせに車で送迎することも、それらすべてが「情」というものから来ていることはわかりました。
実はそういうことは、建築だけでなく、人生すべてのことに当てはまると、塾長はいいます。
例えば、子育てとか夫婦の仲のこととか、、、、、
これは、その時になってみないと私には全くわかりませんが (-_-;)
それともうひとつ、
「女の道」とは、男のそれより遙かに困難であるという話も出ました。
要旨だけ紹介しますと、「女性」と「女」は違うという話です。「女性」は生物学的な分類ですが、「女」は精神的な分類だと。
しかし、これは「男」(と男性)に関しても同じですが、「女」の場合は、更に困難極めるんだ……、ということでした。
だから、塾長は
「女性をしっかりと教え諭すことのできることは、未来の日本(その女性の子供たち)へ教えを継承することであると考えられるからとても有益なことなんだ。だから僕は、女子大の先生になってみたいんだ。」
と言います。
塾長が女子大の先生になりたいのはわかりますが、この理由はホントなのでしょうか???余計な話でしたね
ただこれ以上は、私がうっかり書いてしまうと言葉を間違えてしまいそうなので、辞めておきます (-_-;)
で、これに続くのが、次の
⑧:別に工夫なし
です。
これは夢窓疎石(禅僧・作庭家)の書からの引用です。
「別に工夫なし」
この意味は、「別に工夫なんてしなくていいよ」ではなくて、
例えば、作庭(ランドスケープデザイン)をする際、
それを極めようと思うのであれば、作庭だけを特「別」に工夫してはいけ無い、
その他すべての所作のなかに、作庭という行為の根はあるのだ
ということのようです。
つまり、あることを極めようとするなら、
世界のすべてと関われるようになる姿勢、
これこそが要であるということです。
だからこそ目を配るべきは、
挨拶であり、掃除であり、炊事であり、洗濯であり、オートバイに乗ることであり、教育であり、犬の世話をすることであり、子育てであり、、、、、
という、世界の一切なのでしょう。
建築だけに特別な目を向けているだけでは視力が良くなる筈もないのでしょう。
「真の意味での建築とは、技術やテクニックの披露ではないんだ。
そうい一切がすべて関わり合っているこの世界の様のことがわかって始めて、それに関わる資格ができるものなんだよ」
と前田紀貞塾長はいいます。
では、そんな時、具体的にどのような判断基準を持っていたらいいのでしょう。。。
それには、今迄話にあった幾つかのことを実践してみることも大切ではあるでしょうが、その「判断基準」になるひとつの秘訣についての話がありました。
それが、
⑨:八十歳から振り返れ
です。
今日の今のこの瞬間、
「これはしておいた方がいいのか?しないで済ませられるか?」
などと私たちは考えます。
例えば、昨晩、私は徹夜が続いてどうしても眠かったので、
日課となっていた「10ページ読書」をしないで寝てしまいました (-_-;)。
“その日”という「日計」(その日の計算)という点では、
私は眠さに負けてしまい、しないで済ませてしまいました。でも、寝床に付いた時の心地よさたるもの、なんともいえぬ幸福感でした。
恐らく、母親(情)の「あんた今日はもう寝なさいよ (^_^)。明日やればいいから。」という声を、耳が聞いてしまったからだと思います。
でもこれを、自分が八十歳になった時点から振り返ったとしたら、その時、八十歳の自分はどう思うでしょうか、、、、
恐らく、人生でそんなことばかり続いていると、
「ああ、あの時、もう少し頑張っていれば、人生であと100冊は本が読めたのに……、それを建築の糧にできたのに、、、、、」
と思い必ず後悔することになるでしょう。
だから父親の
「おい、おまえそんなことくらいで寝とったら、志である建築はどうなるんだ (-_-)。人生そんな甘いもんじゃないぞ!!」
という声を、無理矢理にでも聞かなければいけないと思います。
つまり、情に溺れ情にほだされていたら、歳計(一年としての計算)が足りなくなってしまう、ということです。
日計足りて歳計足りず
です。
人生の岐路の判断なんて、毎日のようにあります。
・「今考えたことを誰かにどこかで発表した方がいいのか、それともまだ時間をかけて検証して正解になるまで待っていた方がいいのか」
・「次の休日には疲れているから一日寝ていようか、それとも、講演会に足を運ぼうか」
或いは、かつて塾生であった私が感じていたことなんですが……、、、、、、
・「前田塾へ入塾してみようか、でも入ってら優秀な人たちばかりで大変そうだからやめておこうか、、、、」
そんな分かれ道が沢山あって、本当にいつもクヨクヨした人生の分岐点の判断で悩みます。
塾長は、
「ウジウジしていてやらないより、やって失敗した方がいいに決まっている。
やってみて失敗した記憶より、しなかったことへの後悔の方が遙かに辛いもんだよ」
と言います。
いずれにせよ、「自分が八十歳の時点から振り返った時」というのがひとつの判断基準になることはわかったように思えます。
一応、先の「母親の声・父親の声」ですが、その反対もある、と聞きました。
八十歳の自分が、「あの日は寝てしまってよかったんだ」(情の声)と思えるなら、そっちを取ればいいということ。
このどっちを取るかですに「正解」はありません。
いずれにせよその判断は、
「今日の自分」でなく「八十歳の自分」にしてもらえばいいんです。
少しわかるように思えます。
でも、なんの為にそんな厳しい鍛錬を、自分に課してゆくのでしょう、、、
ふと、私もそう思うときがあります。
それに応えて塾長は、
それは私たちが、人間として、そして建築家として、
⑩:世界(未だ見ぬ世界)を創る
、このことへの使命を負い、そういう存在価値を持ってしまっているからだと言います。
初回に話が出たように、
そもそもの「建築」という言葉は、
ギリシア語の「アルケー」(原理)と「テクネー」(技術)から来ていましたね。
「建築」とは「原理を知る技術」だった訳です。
ということは私たちは、そうした生き様を引き受けてしまった、ということになります。
「ええ、、、そんなこと知らなかった……」では済まされません。
自分が知っていたとか知らなかったに関わらず、あるいは、好きとか嫌いとかに関わらず、もう既にそういう職業に足を突っ込んでしまっているのですから。
因みに建築家とはかつて、今の様な「建物を作る技術者」ではなく、
もっともっと大きな意味でのそれでした。
だから建築家は、建築だけでなく、ランドスケープも彫刻も詩も音楽も作りました。「異種格闘技」でした。
だからそこから生まれ出るものを、(未だ見ぬ)「世界を創る」というのでしょう。「原理」とはそれを支える方位磁針でした。
そういえば、正に上の「異種格闘技」は先の
「別に工夫無し」(作庭だけ特別に工夫せず、世界のすべてを知るように)
と同じではないでしょうか。。。。
更に言えばこれは、禅の思想の「一如」と通じるものもあると考えてよい、とのことです。
ただ、こちら東洋で言う「原理」とは、西洋の「原理」とは少しばかり違って、それは「道」(どう)と呼ばれるものとのことです。
こちらの「原理」とは老子が言うようなそれ、とのことでしたが、私には全く理解不能でしたので、ここでは書けません、、、、、 (-_-;)
なんとなくわかるのは、それが水のようにあるがままであることです。
あるがまま、が原理……???
いつかわかるようになります (-_-;)
ちなみに「老子」という本は、とても短く簡単に読めるとのことでした。
いずれにせよ、下の幾つかの塾長のブログを時間のある夜にでも読んでみてください。
仏教と科学(矛盾は善か悪か……) 前田紀貞の建築家ブログ/ウェブリブログ
建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No1 前田紀貞の建築家ブログ/ウェブリブログ
建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No2 前田紀貞の建築家ブログ/ウェブリブログ
建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No3 前田紀貞の建築家ブログ/ウェブリブログ
さてここで、スタッフ教育、ということへ少し戻ります。
前田塾長がスタッフや塾生たちを諭す時、
塾長のなかに普通の人と違うように思う点があるように思えます。
それが、
⑪:強制
ということです。
今、世の中では
「Aは正しいのだがBも悪くない、Bも良いがCも間違ってはいないよ」
といった「相対主義」がいたるところで目にされ耳にされます。
それがあたかも、物わかりの良い大人であるかのように。
この「相対主義」的考えは、本当に鍛錬した人がそれを言うのであれば、
先の「異種格闘技」となります。
建築が「原理を知る技術」であること、「別に工夫なし」、老子の「道」のように。
ただそれが、未成熟なまま不用意に扱われてしまえば、それはただの「ごった煮」に過ぎない、と塾長は続けます。
その違いは紙一重ですが、言わんとすることは全く逆とのことです。
だからこそ塾長は、
そうした間違った「相対主義」的なことをやっていると、
あるいは、
わかっていないのにわかった気になって「相対主義」を扱っていると、
最後には自分の想定すべき筋道(義)など無くなってしまうものだよ、といいます。
ここで大切なのは、
塾長の言う「相対主義」と「強制されるべき筋道」とは、決して矛盾しない、
ということのようです……。
これに関しては、上の幾つかのブログを読んでみてください。
私もなかなかわかりにくいところなんですが、要は「情と筋道」という相矛盾するものどうしが、メビウスの帯のように捩られ「一」になるのと同じように、「相対と絶対」も一になる、ということのようです。←このことが超越論的眼差しということなのだと思っています ???
で、この「一」になることの意味が、ただ妥協とか和解であると解釈するのが、「わかっていないのにわかった気になった「相対主義」と塾長は言いたいのだと想像します。
それらの極点はあくまで最後まで、矛盾しながら共存していなければならないとなるのでしょう。赤/白のメビウスの帯がピンクになることがないように。
因みに、自身が想定する筋道(義)とは、建築への人生へのビジョンのことです。
もっと言えば、生きることの背骨みたいなものです。だからそれは確固としている必要があります。
それはその人の中では不動のものですが、でも同時に、
その筋道(義)に「唯一の正解」ではないこと、これを教わりました。
「私の筋道」も「あなたの筋道」もあります。
建築でいえば、建築の世界観に「正解」はないということとも一緒ですね。
でも、私たち自身はだからといって、今日はこっち、明日はあっち、というのではいけない、と教わります。
私は私の筋道として一貫したものがあることが大切なのです。
「君のも良いけど、私のも良いよ」
というのは事実ですが、それは「どっちでもいい」を言っているのではない、ということ。
これは大切な気付きです。
なのに、一見した「相対主義」(私もあなたは違っていて良い)気取っている今の世の中で、
実は誰もが(たった一つの)「正解探し」(私とあなたは同じになりたい)をしようとしているという、(悪い意味での)「矛盾」が目に付く昨今といえます。
試験会場で“正解探し”をする者は、必ず 隣の人の答案をカンニングしようとしますね。
それは自分自身の不動の剛なる道筋(答)がないから、
隣の人の道筋をカンニングして「正解は②である」と模写してしまうのです。
塾長は言います、
「隣の答案が②であるなら、自分は②だけは絶対に書かないようにしてやろう」
「周りが皆②であるなら、自分が書いた②を消して⑤を正解にしてやろうと覚悟することだ」
と。
そういうある意味のジコチューの姿勢こそが大切だといいます。
そしてそれは、時には不合理に見えることもある、とも。敵を作ってしまうことにもなりかねない、と。
でも、それに臆病になってはいけないとも加えられます。
これは、未来の建築、未だ見ぬ世界観へ到達しようとする人の眼差しとして、
それを何とか実現させる為にはどうしても欠かすことのできない強い精神性なのだ、
そういうことを言いたかったのだと思います。
だから塾長は、(まずは)「強制しなければならない」といいます。
「あれもいいが、これも悪くない」的な教えでは、教えを受ける側は迷うだけなんだ。
だからまずは、「左の道が正解である」という筋道を教えてみる。
そしてその後、その本人に人間力や本物の知性が育ってきた時、
その時 改めて己の行く道を微調整すればいいのだろう。
次に、剣道の道場によく貼ってある
「守 破 離」(しゅはり)
の意味について説明です。
これは、
・まずは師の教えを「守」ること
・次に、それを「破」ろうとしてみること
そして最後に
・そこから「離」れようとしてみること
で、剣の道の教えそのものです。
でも、今の時代の匂いは、「守」も満足にできないまま早々に、
「離」へ移ろうとしようとしているように、この駆け出しの私にすら映ってしまいます。
でも、これだけは私が思うことですが、
「守」を極めようとした経験の無い人間というのは、根無し草のようなものではないか。
「根」がしっかりしているからこそ、師とは違った「花」を咲かせることができるのでへないか。
ということ。
「根」が無いものは「造花」でしかないわけですね。
或いは、自分で勝手に「破」とか「離」の境地に到ったんだ、と思っていても、
結局は師の掌のなかで人生を模倣に生き、たかだか紛い物の建築を作っているに過ぎないように見えてしまうのです。孫悟空みたいです。
だからこそ、私たちスタッフや塾生 自身が「根」をしっかり据えるとはとても大変なことで、
それこそ、私たち書生が日々格闘している試練なのだと、
自分では納得しています (^_^;)。
ところが、、、、、、
塾長自身も
「僕は未だ “守” のなかに居るんだ」
といいます。
は、、、、、、、、 (-_-;) (-_-;) (-_-;)
時として、塾長はこういうことを言いますから、
自分としては少しは追いつけたか……と思っても(いや、思ってません……すみません (-_-;) )、
そう思った時には、遙か先を歩いていることを痛感します。
守(建築家 増田友也先生へ) 前田紀貞の建築家ブログ/ウェブリブログ
このへんでまとめに入ります。
では、師とはスタッフたちに対してどうあればいいのか?
⑫:師
塾長は、
師とは“技術のある者”のことではないんだ。
そうではなくて、(建築で・人生で)「そこまでやっていいんだ」というお手本を背中で見せられる人間のことなんだよ
と括ります。
僕たちは、先生とは技術のある人、それを教えてくれる人だと思いがちですけど、
そのようなものはいつか消えて無くなってしまうものかもしれません。或いは、そうしたものは、簡単に人に譲り渡すことができてしまうものかもしれません。
でも、塾長が言いたいのは、
「簡単に人に譲り渡すことができないもの」
「それでも残るなにか」
についてではないでしょうか。
であれば、技術とかテクニックといった「枝葉」を手にしようと躍起になるのではなく、もっともっと「根」にある何かについて、
これからの日々、思い切りこの前田紀貞建築塾で養分を吸い取ってみたいと、
私自身は思ったりもします。
でも、そういう人生の方が、なんか無茶苦茶で面白いのではないかと思ったりもします。
どうせ人生一度きりですから。
で、最後。
⑬:水の如し
「とりあえず建築塾のもとで、
(建築と人生の)「筋道と情」の作り方のトレーニングをしてみることだよ。
でも最後には、それらをすべて綺麗さっぱりと忘れてもらいたい。水の如し、で。
最後の道は、自分自身で作るものだから。」
とのことでした。
締めくくりとして、
(建築には・人生には・世界には)「正解はない」ことを前提にしながらも、まずは「正解」を示してみようとする。
そしてその後で、
「正解はない」ことを改めて自身でどう相対化できるか。
(建築には・人生には・世界には)「正解がないこと」を「正解」にして終わりでは世界は見えてくることはこないんだよ。
だから、水の如し。
こういうところから、塾長のいつもの
色即是空 空即是色
(般若心経)
身心脱落 脱落身心 脱落脱落
(道元)
は出てくるのでしょう。
はい、今回は私自身、かつての塾生、そして、現在はスタッフでもあるので興味津々の回でしたが、とても楽しい時間でした。
ありがとうございました。
(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)
前田紀貞アトリエ
http://maeda-atelier.com/
実務プロコース第 8回目:実施図面の方法-2
第08回目:実施図面の方法-2
第8回目:前田紀貞建築塾 実務プロコースは、「実施図面の方法 -2」です。
先週の続きで、もう少し具体的な例を挙げて説明されました。
今回も、前田紀貞アトリエの白石隆治講師が担当します。
作品は、白石隆治講師自身が担当した「TORUS」をメインにされました。
TORUS:private residence & pet-shop - a set on Flickr
まずは先週も話があったように、実施図面では
PLAN(計画) → DO(実行) → SEE(検証)
が基本でしたね。
なので、「TORUS」の最初の「PLAN」(計画)をもう一度、スケッチで確認してみましょう。
細胞の成り立ちからヒントを得た
「内の内は外」がコンセプトでした。
更に、このプロジェクトの“当初の構想”をCGで確認します。
次に、具体的に幾つかの箇所に関しての話がされました。
■「ガラス床」
まずは床のガラスを如何に存在感無く納めるか、ということについてです。
図面の赤丸の部分 ↓ です。
ここでは当然、
「ガラスが床に刺さっているだけ」
という顔付きにしておかなければなりません。
その為に、まずは各所 構造強度の確保の仕方、見える部材/見えない部材、そうした部材の見え方/隠し方などについて説明が成されました。
加えて、できるだけコストパフォーマンスの良い方法を採らないと予算オーバーへ影響してしまいます。
以下が実際に描かれた図面です。
部分的には、「床ガラス」と「窓ガラス」がぶつかるところも出てきます。
しかも、それらが地震時に互いに干渉し破損しないよう工夫すること、
或いは、漏水事故を起こさないような工夫も当然必要となってきます。
そういう細かなことについて、述べられました。
これが
DO(実行)
という実施図面の段階です。
因みに、これは以下のように制作図となります。
で、実際に完成した姿です。
まるで床のボイドにガラスが入っていないみたいですね。
こうした納まりの為に、前田紀貞アトリエスタッフの人たちは、日々、命を賭けて奮闘するのです。
ここで「命を賭けて」と書きましたが、私としては決して大袈裟に言っているつもりはありません。白石講師などを見ていると、正にそんな言葉しかない、と思わされてしまいます……。
そういう建築への愛情と気迫で充満している、という感じなんです。
で、話を戻して
同じ箇所を下から見上げるとこんな感じです。
これまたガラスが入っていないようです!!
■「窓のエッジ」
次は、下の写真のような「ボテッとした開口部」を作る為のディテールです。
通常の建築物では、開口部は“エッジが効いています”が、
TORUSでは白い塊から「ボロッ」と一部が取れてしまったような表情が求められました。
開口部のエッジひとつで、建物の印象というものは、全く違ってしまうのですね……。
それには下のような感じでの「DO」が成されました。
こうしたものを丁寧にひとつひとつ対処してゆきます。
この部分は、特に納まり的には難しくはありませんが、
こうしたアールの対処をモルタルと塗装材で行うにあたっては、工事監理での辛抱強い留意が必要なのです。
■「見えない扉」-1
次は以下の赤丸部分にある扉(非常用進入口)の処理です。
一見、「ええ、ここに開口があるの?」と思うでしょうね。でも、よく見るとあるんです (-_-;)
逆に言えば、それだけ目立たないようにする為の工夫がある、ということですね。
ここは、
こんな感じの納まりです。
これも特にハイテクニック、という訳ではないかもしれませんが、こうしていつも建物すべての場所へ気遣いをします。
ただそれも、すべて、最初の「PLAN」を純粋に導く、という出発点を遵守するという行為に他なりません。
■「見えない扉」-2
次は、室内扉です。
下の赤丸部分の扉です。
これまた“扉が無い”ように見えますね。
こういうことをするのは、ただ「目立たないデザインをした!!」というのではなく、
このTORUSという建物じたいが、
↓下のような室内壁のデザインモチーフでできているからです。
因みにこのウネウネデザインは、「上から落ちてくる光」をより鮮明に映し出す為の工夫です。そして、「内の内は外」の細胞からの引用でもあるでしょう。
つまり、「上から落ちてくる光」というのは、
そもそものスタート地点での「内の内は外」を支える大切な要因だったことを思い出してもらいたいと思います。
加えて、
扉だけではなく、キッチン(写真 右端)も同じような顔付きで処理されます。
■ワイルドだろう?
ただ、
建築の様相(空気の感じ)を作り出すには、「統一感のある美しいディテールだけ」では足りない……
白石講師は、そう言います。
そういう職人芸のようなディテールを得意げに誇る建築家の人たちが居ますが、私もあまり好きではありません。
だって、見ていて息苦しくなるからです。
建築は工芸品ではなくて、あくまで「空気の様相」だと思うからです。
そう考えていたら、流石、白石隆治講師。
その点にも説明が及びます。
下の納まりを見てください。
「手摺が壁と取り合う赤い部分」です。
拡大するとこんな感じです。
なんと、壁に手摺が刺さっている……、しかも普通だとこういう部分にシールをして納めるのに……。
なのに、刺さって終わり……、
しかも木壁に開けられた穴の小口が見えてる…… (-_-;)
緻密なディテールの一方にこうしたワイルドさを空き地としてわざと残している
のです。
だからこそ、このTORUSの空間には「おおらかさ」が漂うのです。
同じように、上の拡大写真では、グレーチングもその端に「受け材」を設置することなく、グレーチングがそのまま放置されてあるような見えになっています。これも同じことです。
いやはや、勉強になります……
前田紀貞塾長の言う、
対極を捩ること・超越論的眼差し
という考えが、こういう所で息をしているのだと思います。
そして、
色即是空、空即是色
ですね
■その他
その他にも、幾つもこうした例が挙げられました。
例えば、
・空調機の吹き出し口の対処法
これを形だけ真似ると、
結露水の問題や付近の木板の腐食などを引き起こしてしまいます。
・家具(キッチン)と建築が溶けるようにする為の方法
まるで、キッチンが床から生えているようですね……
・ささら無し階段の方法
よく見かける風景ですが、これも間違った「DO」をすると、
壁にクラックなどが入ってしまいます。
・コンクリート打ち放し仕上げで、階ごとの「打ち継ぎ目地」を作らない方法
実際の竣工した作品は右ですが、これがマッシブに見えるのは
「打ち継ぎ目地(横目地)が無い」
からです。
ただし、これを普通にやってしまうと、100%漏水の原因になります。
なので、普通は左写真のような残念な顔になってしまいます。
「あ〜あ……」という感じですね。
でも、こうした方法を知っているだけで、
「PLAN」は忠実に「DO」へ導かれることになるものです。
因みに、この建物(THE ROSE)の「PLAN」は、
「プリンを刳り抜く」
でした。
THE ROSE:private residence & office /住宅設計 - a set on Flickr
だからこそ そこに、
「はい、これはコンクリートの建築物ですよ!!」
と言わんばかりの「横目地」があってはいけないのです。
というような話が続きました。
他にもこうした類のことが沢山紹介されました。
白石隆治講師は、最後に締めくくります。
建築は未だ見ぬ世界観を表出させるものだ。
だから、そこに(悪い意味での)“設計や工事の事情”が匂ってきてはいけない。
それをどこまで忍耐して純化できるか、その為に建築への忠誠心を以て
設計や工事としつこく関わり続けるか。
その腹と覚悟だけが建築を純粋にするのだ。
と。
そして、最後にはこうした鍛錬とたゆまぬ努力が世界へと発信されてゆきます。
お疲れ様でした。
(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)
前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/
実務プロコース第 7回目:実施図面の方法
第07回目:実施図面の方法
さて、第7回目:前田紀貞建築塾 実務プロコースは「実施図面の方法」についてです。
実務プロコースは、既に実務をしている人たちを相手にしていますので、当然、「実施図面」というものが重要になってきます。
今回は、前田紀貞アトリエの大番頭:白石隆治が講師を務めます。
白石がアトリエに来てから10年が経ちますが、その間、アトリエの代表作を次々と世に送り出しています。
例えば、
CELLULOID JAM
TORUS
ORANGE
ああ、いずれも「実施図面」の描き甲斐のありそうなものばかりですね (^_^;)。
それに加えて、これらは「現場監理」もとても大変そうです。こちらの話も、後日、されることになっているようで、とても楽しみです。
しかし、今回はひとまず「実施図面」ということで話が成されました。
まず白石隆治講師は
実施図面とは建築作品実現のための「手段」に過ぎない
というところから話を始めました。
そこで、今回はそれについてのお話でした。
それは、前田所長が
(建築では)「図面を描くな」
ということを実施図面で具現化する為のことらしいです。
つまり、図面を描いていると、描くことそれじたいが目的化してしまうことがありますが、決してそうしてはいけない、ということでした。
それはどういうことなのか……
まず、建築が誕生してくるには、3つの段階があります。それは、
「PLAN → DO → SEE」
言い換えると
「計画 → 実行 → 検証」
つまり、
・最初に空間概念・デザインとしての「計画」が確固としてあり
・次にそれを的確に「実行」する為の手法があり
・そして、最後にそれが本当に実行されているかの「検証」をする
ということなのでしょう。
これを具体的な建築の図面行為にしてみると、
「基本計画 → 実施図面 → 施工図面」
となります。
順番にもう少し言えば、
****************************************************************
「PLAN」とは、
=コンセプト(建築の根本思想)
↓
=クライアントへの説得(プレゼンテーション)
↓
=基本計画(構造、素材、ディテール)
****************************************************************
「DO」とは、
=実施図面(詳細計画)・・・コンセプトを建築化
↓
=検討
※スケッチ、CG、模型(原寸1/15~1/30)
****************************************************************
「SEE」とは、
=施工図のチェック及び承認・・・工事、制作のための最終図
・実施図面の「再検証」
・コンセプトが本当に建築化されているか?
↓
=完成物の微調整 ・ 次工程の調整
↓
=建築作品の実現
****************************************************************
となります。
さて、ここでひとつ例を取って話が成されました。
ここに最初のスケッチがあります。
これが
最初の「PLAN」です。
これはまだ走り書きのようなものなので、「空間イメージ」というしかありません。
でも、建築はいつも、こうした「建築家の頭の中」からスタートします。
この「頭の中」が「PLAN」ということになるのです。
因みに、このスケッチが示しているのは
「内の内は外」
という「生命体細胞の内/外の関係性」を建築に翻訳することです。
上の3つのダイアグラムでいえば、
・一番左:都市に対しての「内部」を作る(ピンク色)
・真ん中:その中に更に「内部」を設定する(薄いピンク色)
・一番右:それを「外部」にする(緑色)
という手順です。
つまり、
外構壁(外)で囲われた建築(内)の「内内部」に「THE=外部」をつくる
こと、これが最初の「PLAN」だった訳です。
当然の話ですが、まずはこの「PLAN」が無いと出発のしようがありません。
所謂、コンセプトというものですね。
それは、建築家の情念のようなものからやってきます。
因みに、これを模型にしたのが上です。
左:まず都市から外部を切り取る
中:そこに内部としてのボックスを挿入する
右:その閉鎖されたボックスを「ザ=外部」にする
という手順です。
さて突然ですが、
下の公園みたいな光に満ちた空間は何でしょうか?
そうです、これこそが「内の内」という「ザ=外部」なのです。
今回の話は、この「ザ=外部」を作る為の
その為の「実施図面」の描き方、といことになります。
それには、この「公園」みたいな空間を実現するには
まずは開口部に
それを支えるディテール
が必要です。
これが二番目の「DO」です。
つまり、
ディテールとコンセプト(空間の質)はいつも絶対に切り離してはならない
ことになります。
以下がそれを実現する為のトップライトのディテールです。
基本は、
「トップライトが無いように見えること」
です。
ディテールでは、
「美しい洗練されたデザインのディテールより」より「それが無いように見せるディテール」の方が遙かに難しいとのことでした。
下から見上げた時の角度の検証、
各部材の見付/見込の検証、
防水性能の確保、
無駄に部材を使用しないこと、
等々、沢山の方向からの最適解を得ようとします
無論、壁内部との取り合いも欠かすことはできません。
トップライトですから、そこに結露しないような工夫も重要です。
こうしてできたのが、この写真のようなものです。
確かに、あれだけ複雑に見える「実施図面」ではありますが、
その汗と労力が全く見えないところが凄いです……
私も早く、このような図面を描けるようにならねば…… (-_-;)
そして、三番目の「SEE」です。
こちらは、現場での制作図による原寸検討です。
今迄、1/5〜1/10スケールで描いていたものを、本当に実寸で可能かどうか、
これを現場に入った段階で検証します。
上は、その時のサッシュ屋さんと描いた図面です。
この段階では、当然、最終的な施工の可能性、瑕疵が発生しないような検討も成されます。
以上が、
「内の内は外」
を実現する為の、トップライトの納まりを進めてゆく為の
「PLAN → DO → SEE」
でした。
他にも、幾つもの例が挙げられましたが、いずれもこの
「最初のコンセプトを如何に忠実に実現するか」
という点では、全く同じ思想のもと、各図面が制作されていました。
そして、白石講師が最後に言ったことです。
「PLAN DO SEE」を実現するために必要なこと」
それは、
「最後まで忘れないことだ」
何を?
そうです、
「建築の根本思想を」
こうしたことは、白石隆治講師の10年に渡るアトリエでの鍛錬から来ているものなんだなあと、
横で聞いていた私は全身にビンビン感じた次第です。
お疲れ様でした。
(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)
前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/
実務プロコース第6回目:プロ用プレゼンテーションの方法
第06回目:プロ用プレゼンテーションシートの方法
さて、第6回目:前田紀貞建築塾 実務プロコースは
「プロ用のプレゼンテーションシートの作り方」についてです。
今回は、前田塾長に代わって、スタッフである村越千紗が講師となりました。
村越千紗は、6年間ほど「プレゼンテーション」だけを専門に行うセクションにいましたので、このような内容にはうってつけの人材です。
で、まず村越講師が言うには、
設計事務所をやっている人たちに、ひとつとても欠けていること、
それは
「プレゼンテーションシートが下手くそ!!!!!!」
とのことです (-_-;)。
確かに、日本の建築学科はどうしてもお堅い工学系なので、所謂、グラフィックデザインというものについて学ぶ機会など無いから、ということもあるかもしれません。
それにしても、学生たちのプレゼン能力はあまりに酷い……、と、私ですら感じてしまいます。
例えば、大学の意匠の講義の講評も、「案の内容」について指摘はありますが、プレゼンテーション」に関して言及されることはありません。
というか、先生たちがそもそもそういう素養を持っていないから、ということもあるのでしょうが。
村越講師が言うには、
建築の実務では、「何を伝えるか」(WHAT)と同じくらい「どのように伝えるか」(HOW)が大切
とのことです。
そういう訳で、今回は
「グラフィックデザインの基礎中の基礎」
となりました。
ただ、たった1時間半ですので、以下の6項目に絞っての話となりました。
1,超A型人間になれ
2,一瞬で読みやすいこと
3,見えない四角を意識する
4,読みやすいのはどれ?
5,フォントの種類は「最小限」。bold使うな。ファミリー歓迎。
6,色同士にも相性がある。色調を合わせる。
1,超A型人間になれ
プロのプレゼンテーションシートはなぜ美しいのでしょう?
それはとても単純で
徹底して整頓されているから
ということに尽きます。
決して、曲芸のようなデザインテクニックによるものではない、ということです。
というか、そういったテクニックが建築で使われることなど、なかなか無いのでしょう。
つまり、
細かい部分までもが
ミリ単位で徹底して整頓
されている。
ゆえに全体がきっちりみえる。
こういう「最低限を守る」に尽きる、と。
当たり前のことを当たり前にやる、ということです。
でも、その当たり前とは、具体的には何なのでしょう……
話を項目別にまとめますと、以下ですが、
これらいずれも
態度
のお話ですね。
だから最低限です。でも、こうしたことを本当にちゃんとやれる人がどれだけいるでしょうか……
・整理整頓をきっちり。
・精密、緻密、迅速、整頓への気遣い。
・ファイル、順番、フォルダ、名前、レイヤー。仕事の効率化。
・<ページフォルダを作る>
・aiデータ他、リンクファイル、画像データも同フォルダに。
・<壁面ボードを活用する>
・全ページを同時に眺められるように。ボードに貼る。
・客観的に見る。全体と通したデザイン。
・不要なものは入れるな。
・“ひとひねり”はいらない。まずはシンプルから。
・基本的に読んでもらえないことが前提。
・資料の隅々までに熟読してくれるクライアントは滅多にいない。さらっと目を通す程度でも理解されるように。
ああ、、、、私など頭が痛くなりそうですが、
要は、「きっちりやろうよ」ということです。
誰もが、「教科書」を馬鹿にしますが、この教科書こそが大切である、ということです。
それが「超A型人間」ということなのだと思います。
人はそれぞれにずさんな性格もありますが、プレゼンテーション作業をする時だけは、「超A型人間」になってみる、ということですね。
2,一瞬で読みやすいこと
とにかく揃える。
何かを「置く」時には、その配置(美しさ)に常に気を配る。
沢山の例が挙げられましたが、そのひとつとして以下のようなものがありました。
あなたなら、以下のAとB どっちが見やすいですか?
A:1,683㎡÷250㎡/台=6.7台→7台
B:1,683㎡ ÷ 250㎡/台 = 6.7台 → 7台
無論、答は言うまでもありませんね。
でも、AとBでは何が違うのでしょうか???
ああ、確かに沢山違うところがあります。
全角半角の扱い、スペースの入れ方、、、、、
これらをあなたはいつも意識的に使い分けているでしょうか?
その他にも
・<引き出し線>
・文字の終わりを揃える。場合によっては、線の終点を適宜。線を曲げるなら直角。
・情報に“正しく”優劣をつける。
・キャッチ、タイトル、見出し、中見出し、小見出し、本文、キャプション。
・「キャッチ」と「見出し」だけ読めば内容が理解できるように。
・言葉選びも重要。
・キャッチーな言葉。
・難解な言葉NG。
これらの詳細な説明ができないのが残念ですが、どれも
「一瞬で読みやすい」為の手法です。
3,見えない四角を意識する
さて、このへんからグラフィックデザインの基礎の基礎がスタートです。
これも話を項目別に一応列記しますと、
・グリッドにのせる。
・すべてのテキスト、写真、CG、図、はあるルールに従って配置する。
・一見、適当な位置に置かれているようにみえるものでも、その裏にグリッドが敷かれていると、ただ「バラバラ」に見えず、整然とした印象がある。
・マージン=周りの余白、について。
・紙面の4辺まわりに余白をとる。これらは全部のページで共通にすると、統一感が出る。見開きにする場合はノドの寸法を大きくとる。
・段組み=分割。
・マージンを取った内側のスペースを何段かに分ける。1段組、2段組、
・3段組、4段組、6段組・・・ 6段組で作っておくと、1,2,3,6段として使えるので便利。
・段と段との「間隔」は5mm なら5mm で統一する。
・このガイドラインに沿ってレイアウトを行う。
・InDesign :[レイアウト]>[マージン・段組]で設定可。
・Illustrator :自分で線を引きガイドラインを作る
・[表示]>[ガイド]>[ガイドを作成]
などを配慮することでした。
恐らく、建築のプレゼンテーションシートを作製する人で、この「段組み」から行っている人たちは、とれも希だと思います。
でも、この「見えないフレーム」の力、というものはとても凄いものなのです。
これらの派生系としては以下のようなレイアウトにもなります。
他の例としても
こうしたレイアウトは、殆どの建築関係者は「何となく」してしまっているものでしょう。
でも、
「ルールから導かれるもの」と「何となくデザインされたもの」には大きな違いが出てきます。
例えば、どんな雑誌でもポスターでも、それらの誌面構成は、こうした「段組み」からできています。
ですから、村越講師は、
「どんな雑誌でもいいですから、まずはそこにどんなルールがあるのかを発見しようというのも大切なことです」
とのことでした。
さあ、例えば、以下にはどんなルールがあるのか……
考えてみるのも面白そうですね。
なるほど、、、、
確かに、本棚から拾ってきた本の1ページを開いても、なんとなくそういうことが「ルール」としてあるように思えてきます。
うん、、、それだけでも収穫です!! (^^)/~~~
4,読みやすいのはどれ?
内容項目別には以下でした。
・1行に30字程度が読みやすい。
・行のおしりも揃える=均等配列。
・行の先頭に句読点はNG=禁則処理。約物。
・どこで改行する?=字送り。カーニング。
具体的には「字送り」、「カーニング」などが、様々な例を用いて説明されました。
以下などを見ると、互いの違いがとてもよくわかりますね。
ほんの僅かな違いなのに、随分と印象が違うことがわかります。
こういうことって、
結局、普通はワードとかイラレのデフォルトを使っているだけで、何も気にしてはいなかった…………
と反省します。
5,フォントの種類は「最小限」。bold使うな。ファミリー歓迎。
以下は、フォントの話の時の、村越講師から配布された資料です。
これを見て、ビックリ、
ええ、boldはダメ???…………
理由を聞いて納得。やっぱり素人グラフィックデザインではダメですね……
まあ、フォントなんて、建築関係者にとっては、「デザインの違い」「雰囲気の違い」くらいにしか思われず、それ以上はなかなかわからないものでしたが…………。
あれこれ聞いて、反省…………
6,色同士にも相性がある。色調を合わせる。
同じく、色についての資料です。
ということが、1時間半をはしょりにはしょった内容でした。
そして、最後に言われたことです。
まずは基本形を徹底して実行してください。
例えば、「1行に30字程度が読みやすい」という定石があるなら、それを覚えてとにかく真似してみてください。
決して、華やかなグラフィックデザインに目を奪われないで、
分かりやすい資料を教科書通りに作ること、を心がけてください。
今日の話を本当にパーフェクトにできたら、建築家としては相当のレベルであると自負していいでしょう。
とのことでした。
(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)
前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/
実務プロコース第5回目:小学生でも創れる建築(建築の自己批評)
第05回目:制作する自分はどっちへ向いている?(自己批評)
さて、第5回目:前田紀貞建築塾 実務プロコースは
「自己批評」についてです。
これは、建築家として創作をする時に、あなたはどっちの方向へ向いていますか?ということを「自分で自身のことをわかっておきましょう」という教えです。
例えば、野球をプレーするにしても、あなたがどれだけバッティングの為に腕や脚の筋力を鍛えたとしても、
ヒットを打っておもむろに「三塁」に向かって走り出したのでは何の意味もありません (-_-;)。
折角の日々の努力が全くの無駄に終わってしまいます。建築でも同じことがあるというのです。
うん、確かに、建築をするには沢山の修練がありますが、
それが最後にはとんちんかんな方向へ向かってしまうのでは、元も子もないということになりますね。
そんな、創作に於ける“行き当たりばったり”が無いように、ということ
これが「自己批評」ということなんですね。
まず、塾長から話されたのは、「合理主義とロマン主義」の話でした。
なんか建築史っぽくて硬い感じの言葉ですが、でも、これは驚くほど簡単なことでした。
まず、
① 合理主義とは、形式性・ルールによる構成が成されている建築のことを言います。
それは、他者と共有できる方法で作る作り方でして、それ故に、普遍性があって理性的なものをいいます。
例えば、ギリシア建築・ローマ建築・ルネサンス建築などはこれに入り、この極が「フォルマリズム」と言われるもののようです。
具体的に「他者と共有される」為には、西洋なら黄金比、東洋ならカネワリなどの寸法比例体系といった標準(スタンダード)を元に創作をするというような方法がとられます。
この方法では、標準(スタンダード)が基盤となっていますから、
自ずと「制作の根拠」は他の人と共有されますし、それ故に対話(ダイアローグ)になりやすいということです。
つまり、そこには根拠となる「ルール」や「基準」があります。
「ああ、これわかるよ!!」
と言われ易い方法ということですね。
一方で、
② ロマン主義とは、建築の創作が「私」という個人的な情念によって導かれるようなものを言うようです。それは、
「俺が良いと思っているのだから良いのだ」
という理屈になります。
つまり、こちらの方では、
創作された結果が共有できない場合も往々にしてありますが、
その分、固有性があって情念的でもあるものとなります。
反対に、
「制作の根拠」が共有されない場合には、
ただの独白(モノローグ)的にならざるを得ないこともあります。
創作の根拠が「私」にしか無いのですから。
例としては、ゴシック建築やロココ建築(後期バロック)、そしてガウディーのようなものがこちらに入ります。
さあ、わかりやすさを優先して大雑把ではありますが
こういうふうに二つに区分けしますと、合理主義の方が正義の味方のように思えてしまいますよね。
そしてロマン主義は徒なデザイン偏重主義のようにすら映るかもしれません。
でも、前田紀貞塾長が言うのは、
「このいずれかに依ってもいけないのだ」
となります。
そう言われるとそうかもしれません。
「私だけが根拠である創作」(ロマン主義)は、熱過ぎて火傷しそうです。
でも、「皆と共有することだけを正義にした創作」も、皆との嗜好を合わせようと分析し過ぎて、理論的過ぎて味の無いか生焼けの料理みたいな感じかもしれません。
ではどうするのか???
そこで出されたのが
バロック
という概念でした。
これは、合理主義とかロマン主義のいずれにも依ることのない、中立的な立場の創作を指して言うようです。
塾長はこれは、世界中で見た建築の中でのトップクラスにあると言います。
確かに、ルネサンス建築のような規律ある寸法体系を残しているように見えます。
でも同時に、静かにうねるような曲面も同居していますね。
下の絵は講義で使われたものですが、
合理主義は正円。つまり、あるひとつの中心点から等距離にある点の集まり、
という理論的客観的なもので、誰にでも描くことができます。そして、この図形を嫌う人はあまり居ないと思います。
対して、ロマン主義は、一番右の不整形な形だと前田紀貞塾長はいいます。
ある人が「僕はマメ型が好きだ」といえば、それで終わりです。
そこに議論はありません。「何故、マメ型なのですか?」と問うことに意味はありません。それは個人の嗜好だからです。
でも、真ん中の「楕円形」とはどんな図形でしょうか?
そうです、これは一見、「個人的な好みの範疇」にあると思いきや、
「二点の中心点からの距離の和が等しい点の集まり」というルールも有しています。
これが、前田紀貞塾長の言う、両者の中間、ということなのだと思います。
そして、
両極を共存させる作り方を心がけることが創作の中で盲目にならない方法なのだ
となります。
「客観性だけに依ってもダメ」「主観性だけに依ってもダメ」ということです。
ただ、自分もよくよく反省すれば、実際に建築を考えている時には、
その場の勢いというか、自分の無知というか……、
自分が今、どんな方向で制作をしているのかがわからい状態で作ってしまっていると思います。
もしかしたら、「自分側に寄り過ぎているのかもしれない……」
もしかしたら、「社会や他者に迎合することを過度に意識し過ぎているのかもしれない……」
と「自己批評」してみる必要があるのでしょう。
いずれにしても、自分の創作が盲目的になんとなく行われてしまっていることが良いことである筈がありません。
今回の「自己批評」ということの意味、少しわかってような気もしました。
だから、私たちが建築の創作している瞬間に、「自分への自己批評」
「さて、今回のプロジェクトで自分はどちらへ振れているのだろう?」
という反省、つまり自己批評が大切になってくるのです。
言うまでもなく、上の振り子の絵で左が「合理主義」、右が「ロマン主義」です。
この後、前田塾長から、前田紀貞アトリエがこれまで創ってきた建築作品が
如何にして自己批評されながら成されてきたか、という経緯の説明がありました。
まずは、「CELLULOID JAM」という住宅作品です。
これは、形だけ一見すると、アトリエの情念だけで制作されたように見えますね。
確かに、それ以外に見えないともいえます (^_^;)
でも実は、その創作の根には「メビウスの帯」や「トポロジー」といった数学的な図形操作の概念が横たわっていることの説明がありました。
新作:プラスチックの建築(CELLULOID JAM) 前田紀貞の建築家ブログ/ウェブリブログ
に、このプロジェクトの詳細が書かれています。
確かに、これを読むと、これだけの自由な三次曲面の構成が、
緻密なルールや理論から導かれていることがよおくわかります。
それ故に、この形が任意で恣意的で個人の好き嫌いだけに留まらないのでしょう。
二番目は、名古屋の住宅であるEAST & WESTについてです。
これも、個人の手癖のようにクネクネしていますね。
これまた、
アルゴリズム建築 第二弾(EAST & WEST) 前田紀貞の建築家ブログ/ウェブリブログ
を参照してみてください。
この空間と形態が、どのようなものから導かれてきたのか、ということを。
因みに、この形はコンピューターによるアルゴリズムに由来しています。手で創られたのではなく、コンピューターが創ったもの、ということでした。
しかも、このEAST & WESTという住宅では、「部屋割り」をコンピューターが決定しています。なんと……
詳細は上のブログを。
最後に、
I REMEMBER YOUという住宅が紹介されました。
塾長は
「この形が出てきた時には、自分は心底驚いた……。凄いデザインだなあ……って。」
と言います。
つまり、この複雑な美しい形態も、
決して「私が好きですから」というロマン主義だけから出てきたのではない、ということになります。
というより、これまたコンピューターのアルゴリズムによっていますから、「私」ではない「他者」が創ったものといえる訳なんですね (^_^;)
詳細は以下にて。
アルゴリズム建築と作家性 (I remember you) 前田紀貞の建築家ブログ/ウェブリブログ
というような話で、
創作が「私」と(私以外の)「他者」が、どう混合チームを組んで作るか、という「バロック的な創作方法」の話でした。
考えてみるに、僕達は往々にして建築を創るときに、
「私が創ります」
という考えていることが多いですね。
というか、それ以外はどうすればいいの???と思ってしまいます。
でも、前田紀貞塾長は
「そういう時こそ、
誰が制作の根拠になっているのかの自己批評をしなさい」
と言います。
つまり、僕達は
「自分が創る」
については、なんとなくわかっているようでいても、
「他者が創る」
ことの意味がちっともわからないのです。
ちなみに、これを
「無我の創作」「無私の創作」
と言うようです。
もうひとつ、塾長がよく口にすることは
「創るとは創らないことである」
です。
正に、無我であり無私なんです。
通常、自分が知っている創り方をしているうちは、
「自分のポケットにあるデザイン技術」
だけを出していることになります。これが「私が創る」です。
でももし、
「自分のポケットに無い創作ができる技術」
を手にできたとしたら……
それはまるで、打ち出の小槌のような魔法みたいになるでしょう。
塾長が言うのは、創作に於けるこの打ち出の小槌の方法についてなのです。
それらの詳細な例として挙げられたのは
-(作ろうとせず)模型と遊んでみる
- 模型材料を変えてみる
- 違う筆を使ってみる(マチスの例)
などといったわりとわかりやすいものに始まり、
- 偶然・誤解を味方につける方法
(平面断面逆転、暗い部屋での技術、目を細めてのテクニック、違うパーツを使う、、、、)
- 他者に任せてみる方法
- ルール・アルゴリズムを設定してみる方法
- パターンを尽くしてみる方法(ズラしの方法)
などへも話が及びました。
詳細はここでは書ききれないので省略します。
さてさて最後になりますが、
前田紀貞建築塾が考案した
「サイコロ建築」
というものについて説明が成されました。
これは、創作する人にデザイン知識やテクニックがゼロであっても、
平均的な建築デザインを誰でもが創ることができる、という打ち出の小槌メソッドです。
簡単に言えば、サイコロを振って出た偶然の目によって、建築空間を創ってゆく方法です。
以下のように、サイコロを振るだけで、平面の形状、断面の形状が、どんどん複雑で豊かになってゆくのです。そういう「ルール」を備えた建築の方法こそが、「サイコロ建築」というものです。
このメソッドを知っておけば、
通常の大学生のレベルよりは少しだけ優れた程度の建築は誰でもができることになるといいます。
これぞ、
「建築は私が創る」
ということを拒否して、
「私など不在でも創れるよ」
つまり、
「ルールを設定しさえすれば誰でも建築なんて創れるよ」
ということの証拠にもなると思います。
因みに、以下は今年の夏に
小学生と中学生を対象として、前田紀貞建築塾で開催された「サイコロ建築講座」
の完成作品です。
冷静に見ても、この作品が建築を一切勉強したことがない小学生(六年生)の作品とは思えません……(^_^;)
自分より凄いものができているとすら思います……
いや、自分より凄いです…… (-_-;)
ということで、「合理主義とロマン主義」というもの、
その両方を身に入れることの大切さが、こういう実例を通してわかったように思えました。
すなわち、自分からは出て来ない「ルール」というものに身を委ねる方法、についてです。
(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)
前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/
実務プロコース第4回目:「言葉」はどのように扱えばよいのか?
第04回目:「言葉」はどのように扱えばよいのか?
さて、第四回目:前田紀貞建築塾 実務プロコースは「言葉」についての講義、です。
「言葉」とは、産まれた時に学んだことで、誰でもが口にできる既に習得済みのことだと思っている、誰でもが正しく使えるものだと思っている、これが通常の理解でしょう。
でも、「真の意味での建築家」として生きる為に必要な大切な要素のひとつとして、この「言葉」の遣い方があると、塾長は強調します。
ただ、ちゃんとした「言葉」を遣うことができるには、技術でそれを手にしようとしては意味が無いのだとも言います。
それでは、言葉はただの“表面のマナー”になってしまうからです。
例えば、朝、事務所に先輩が来たら「おはようございます」と言うのも、技術とか知識ではありませんね。
よくよく考えてみれば、それは自分がその先輩や先生が大好きだから、だからその人に「おはよう」と言ってあげたいからです。
或いは、諸先輩方より事務所へ早くやってきて、先輩方が来る前に掃除したりするのも、それが「当番」だからではありませんね。
そうしてあげて綺麗な机で、綺麗な灰皿で、そしてコーヒーひとつでも心を込めて先輩にお出しすれば、大好きでお世話になっている人が気持ちよくその一日を送ることができるだろう、と思えるからです。
実は、こういうことすべてが建築家と依頼主の間でも同じなのです。ちょっとわかるでしょう。
ところで、そんなふうにしてコーヒーをお出しした時、
その先輩から「ヌルい!!」と言われたら、あなたならどう思うでしょう。
実はこれが建築家としての態度(依頼主との)の分かれ目にもなる態度であり所作なのです。
ある人は、
「折角、こっちがわざわざコーヒー出してやってんのに、この人は何ワガママ言ってるんだ!!」
となるかもしれません。
それは、「当番」という義務でやっているからですね。であれば、いきおいそういう思い方になるでしょう。
でももし、大好きな人の為にそれをお出ししているという気持ちのなかで、「ヌルい!!」と言われたらどうでしょうか?
そう、
「失敗した、コーヒーを入れた後に、自分は電話に出てしまっていたのに、その後そのままお出ししてしまった……。いやいや、自分が実に気遣いができなかった……。大好きなのに、その気持ちが伝わらなかった、悔しい……。二度は無いぞ!!」
となることでしょう。
そうなんです、人はいつも自分を正当化して生きているものなのです。
人を自分の中に住まわすことができないのです。
逆に言えば、「ヌルい!!」という言葉は、後輩の不細工をしっかりしてやろうという、先輩方の温かな心でもある訳です。
「そんなことも気遣えず、逆ギレしているような稚拙では、建築はできないんだよ」という。(先輩というものは、敢えてそういう言い方をすることで、後輩たちが“関門”を潜ってこられるか、という試しをするもんなんですね)
それも知らずに、自分に汚い泥のこびりついたままの心で世界を生きてしまっている、それが普通の僕達なんです……。
ですから、
言葉というものは、そういう心のありかたの中から良くも悪くも口から飛び出してきてしまうものだということです。
つまり、言葉こそがあなた自身の心や人柄を映すものだということなのです。
いやいや、こういうことは言われればとても簡単なことですが、
今そのことに自分で気付いており、更にはそれを実践に移せるか、と言われればとても難しいことだと思います。
まず無理だとも言えるでしょうね。
ということは、人間としての最低限ができないなら、真の意味での建築家なんてまず無理……、
ということになってしまう訳でして……。
これこそが「言葉とは何か」ということの神髄です。
もしあなたが、これから建築家を目指すのであれば(僕もそうですが……)、
こういう生活の中のひとつひとつの自分の態度とか眼差しこそが言葉に現われて来る、ということを知っておいた方がいいですよ、そんなお話でした。
正しい言葉が遣えるということは、「僕はあなたが大好きなんですよ」ということを相手へ伝える術(すべ)でもありますし、或いは自分なりのひとつのケジメかもしれません。
自分が飼っている可愛い犬の為には沢山のことをしてあげたくなります。それと何も変わらない、とても原始的な感情なのだと思います。
だからこそ、大切だと思います。
正に、「実務プロコース」にはうってつけの話です。
因みに、前田紀貞塾長が頻繁に僕達に言うのは、
「今は、そういう“教科書”を皆が疎かにしてしまうんだ。それより、もっと技術的で難しい応用問題ばかりを、皆、やろうとしている……」
ということです。
うんん、確かにその通りだと思います。
設計事務所に入って、掃除や灰皿洗いなどしていることなど、建築とは関係ないことをやっている無駄な時間だ、とどこかで思ってしまってはしないでしょうか……。
正直、自分にもそういう瞬間があります。
そのへんをリアルに本当に身に染みて感じて知ることは、すぐにはできない方が普通かもしれませんが、そういう怠けを続けているうちに、きっと「本物の建築」からどんどん遠くなってしまっているのだと思います。
だから、その本当のところを疎かにしてしまっている自分を誤魔化す為に、応用問題に走ってしまうのだとも思います。
勉強でも、実はそういうことがあると反省します。
ところで、
前田紀貞アトリエの打ち合わせスペースにはある言葉がかかっています。
これ、「別に工夫無し」
と読みます。
疎石は禅僧でもありましたが、作庭師でもありました。今で言えば、ランドスケープデザイナーです。
で、意味はといいますと、
「別に工夫なんてしなくていいんだよ」
ということではなくて、
「もし、あなたが作庭(ランドスケープデザイン)をしようと思うなら、作庭という専門だけを特別に工夫してはいけませんよ」
ということだそうです。
もっといえば、
「創作(作庭)の根には、生きることのすべてがある(作庭だけには無い)」
ということです。
これは、よく前田紀貞塾長が言う
「すべてが建築だ」
とか
「全部ひっくるめて、まるっと建築」
ということと同じです。
その心は…………
建築とは、ある「秩序」を作り出すことですね。
ひとつの何も建っていない真っ新で無の敷地に、そこに壁とか床とか屋根、そしてガラスなどを入れて“秩序を作り上げること”に他なりません。
では、その「秩序の作り方」はどこから来るのでしょうか?
多分、その人その人がそれまでの経験で勉強した方法、或いは、雑誌などで見た建築家のスケッチなどからやってくるのでしょう。
でも、ここでちょっとだけ想像してみたいと思います。
「それだけでは、少しばかり貧しくないだろうか……」
と。
そうですね、建築が建築だけを参照にしていたら、そういう狭い分野からの引用くらいはできるかもしれませんが、それ以上でも以下でも無くなってしまいます。
つまり、昨日までに作られてきた建築の“焼き直し”をすることに留まってしまう訳です。
決して「未だ見ぬ新しい建築」ができる訳ではない……。
であればどうしましょう。
ある人は「映画」を参照にするかもしれません、或いは「演劇」を参照にするかもしれません、或いは「音楽」を……
疎石が言うのは、そういう流れのなかに、もっともっと基本的な毎日の所作を入れてみなさい、ということだと、僕は思います。
そんな特別な分野を参照しなくとも、一番大切な気付きの根幹は取るに足らぬ毎日の中にあるのだ
ということです。
それが掃除であり、洗濯であり、炊事であり、、、、
人は目の前のものは見えない習性があります。いや、目の前のものこそを疎かにしがちなのです。
建築家という生き方とは、目の前にある世界の裏側にある「秩序」に気付くことなのでしょう。
それには、何も特別なことではなくて、
普通のことを普通にやる、最低限をきっちりやる。
これだけですべてOKなのです。
でもただひとつだけ、
「普通のことをやるには、普通にしていてはいけない」
ということです。
「普通とは、想像を絶する鍛錬があってやっと手にできるものだ」
ということが忘れられてはいけないのだと思います。
そうしたら、
「すべてが建築だ」
とか
「全部ひっくるめて、まるっと建築」
なんて、凄くよくわかってきませんか??
それが建築なんです。
「建築なんて、何も凄く専門的な職業では無いよ」、と塾長はいつも言います。「だって、四則だけでできるじゃないか」とも。
これが、「応用問題を解くことではない」ということです。教科書を生きることなんだと言います。
相手の本当の気持ちのありかもわからない人が、どうして建築などできるのでしょうか……
「建築家にとって大切なのは、己の中に他人を住まわせることだ」
これまた前田紀貞塾長の言葉です。
建築は一生に一度の大切な事業です。
だから、依頼主は皆、とても真剣に事にあたってきます。
それを、こちら側だけが「職業」として考えてしまったら……
釣り合いが取れませんね。
だから、
これまた前田紀貞アトリエに張ってある言葉
「建築は職業ではない、生き様である」
ということなのだと思います。
今回はそういう生き様こそが、結果として「言葉」になる、というお話でした。
実際の講義では、その詳細の説明が成されましたが、沢山あり過ぎてここではインデックスだけ紹介しておきます。
基本は
・ 言葉とはキャッチボールである
・ 言葉とは世界をスケッチする手段である
という二編からでした。
ただそうは言っても、最後には(言葉を遣う際の)「応用問題」にも言及されました。
例えば、
メディア雑誌などに書く「コンセプト文」について、その書き方の説明です。
例を挙げれば、「新建築」に書く場合、「日経アーキテクチュア」に書く場合、「GA」に書く場合、の違いなどについてです。
いずれも、そのメディアがどういう読者を持っているのか、どういうことを期待してくれているのか、ということ、「その道筋」を心得ることの大切さについて話が成されました。
これも「言葉のキャッチボール」ということになるのでしょう。
ただどれも、「樹形図を書きなさい」ということでは同じでした。
文章を書く為の「骨格」ということなのでしょう。粘土細工の「芯棒」みたいなものです。
CELLULOID JAMというプロジェクトを例にとって、その文章の成り立ちが説明されました。
他にも、文章構成の基本として、
主語/述語/目的語、分節、括弧、文頭、強調、サイズ、フォント、断定、半角あけ、文字バランス、行あけ、話題緩急、内容の括り、例示、類語辞典、身体部位の表現、略、句点の位置、キーワードの統一、和語・古語、ラフな表現、文末の締め、象徴する言葉の発明、文字に込められた気持ち、写真、文字の反復
等にもコメントがありました。
最後に、「講演・レクチャーの基本」という項目で今回は終わりでした。
ありました。
人の前で話をすし納得してもらう為に、「十項目の鉄則」が披露されました。
宿題としては、
「自分の先生から宴に招待された時にお出しする返信の書簡」
というものが出されました。
各人、今日の指導を聞きつつ、自分なりに書いてみること。
さあ、どんな感じになることでしょうか。
(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)
前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/
実務プロコース第3回目:“コンセプトとかたち”(理論と実践)の関係とは?
さて、第3回:前田紀貞建築塾 実務プロコース今回は
“コンセプト(理論)と“かたち”(実践)の関係とは?
でした。
これは普通考えると、
まずは“コンセプト”(理論)があって、そこから“かたち”(実践)ができる、ということになります。
事実、「そんなことしたら、コンセプトが“後付け“にならないですか?」
という話はよくある話です。
つまり、本来、建築が造られる時には、コンセプトがあってのカタチなのに、カタチからコンセプトが出てくるのは逆でおかしい!、と。
コンセプト(考えたこと)とカタチ(できた形)・・・
両者の関係は、往々にして、誤解されていることが部分あるように思うので、今回の話になったのだと思います。
「後付けコンセプト」という否定的な言葉も、こういう入門時にありがちな誤解から生じます。
塾長の話からすれば、
物が造られる時、コンセプトなんて「後付け」であっても一向に構わない
ということなのです。
この真意を説明します。
上のような勘違いは、
「まず頭の中にモヤモヤしたコンセプトが発生してきて、次にそれがカタチになる」
という
原因 ---- コンセプト(=頭)
結果 ---- カタチ (=手)
が
「原因 → 結果」
という、あまりにわかりやす過ぎる一方通行という常識に由来しているからなのだと考えられます。
だから皆、まず最初に頭を動かして「コンセプト」を産み出すことからスタートしたがり、その後でそれを「カタチ」にすることを考えようとします。
結論から言ってしまえば、
物造りでは、「コンセプトとカタチ、このいずれからスタートしてもよい」
ということです。
前記の言い方を借りれば、
「カタチあってのコンセプト」
「カタチをコンセプトにする」
という逆転した順番でも一向に構わない、ということになります。
もうすこし言えば、
創作の中では、このふたつ(コンセプトとカタチ)はいつも互いにキャッチボールするようにしながら進められなければならない
ということにもなります。
「コンセプトとカタチ」、言葉を変えれば「頭と手」は、あなたが創作をしているあいだ中ずっと、この両極の間で行き来や会話が成され、そういう互いのキャッチボールの中で、その姿形を時間経過と共に、順次、変えてゆくものでなくてはならないのです。
この瞬間、コンセプトとカタチは「不思議な共振」をし始めます。
これこそが、「生きた物造り」ということになります。
決して、「一方通行」だけではいけない。特に「言葉 → 形」という一方通行では・・・・。
こういうことを殊更に口に出して言うのには理由があって、前田紀貞塾長が大学の時、やはり
「最初はコンセプトからだ!」
と、相当強く考えていたからとのことです。
というより、実状はそんな生やさしいものではなく、
「自分の着想し得たコンセプトから出てくるカタチには、たったひとつの完璧な解答しか無い筈だ」
とさえ、過激な信じ方をしていたとのことです。
ところが、そんなふうにしていつも決まって自分が拠り所にしていた「コンセプト」というものは、それが「カタチ」に翻訳される瞬間、決まってその「カタチ」というものに裏切られ続けることになった、といいます。
決して、「コンセプト」は、そのまま「カタチ」に透明に移行され翻訳されることなんてなかったのです。
「どうして自分のコンセプトは、カタチに翻訳される際に変形を余儀なくされるのだろう?」
これには前田紀貞塾長はとことん手を焼きました。
この2つの事象の乖離を埋めるべく、敷地にヒントを求めようとしたり、床/壁/天井という建築物のシステムについて考えようとしたり、構造主義・現象学にヒントを求めようとしたり・・・・・。
でもどれも、多少の助けにはなるものの、あまりうまく行くものでもありませんでした。
そこで思ったのは、
「確かにコンセプト(言葉)は変わってしまうかもしれないが、出てきたこのカタチ(建築の空間)じたいは、悪くない・・・・・・
だったら、それに見合うようにコンセプト(言葉)を少しだけ変形してしまってもよいのではないか・・・・」
でした。
最初は恐る恐るの及び腰ではありましたが、折角、得ることのできた純粋なコンセプト(言葉)を、そこで少しだけ変形・修正してみました。
ところがどっこい、驚いたことに!
このコンセプト(言葉)の変形という強行突破を実施してみると、その「変形されたコンセプト(論理)」に引っ張られ、次の段階として「カタチ」の方も自然と変形されて来るようになったとのこと。
そしてこの「カタチ」が・・・・、それまで自分でも想像だにしていなかったような、予想以上の「カタチ」(建築空間)に変貌してくれたという訳です。
そして、そして、更に、この「カタチの変形」が再々度、またまたエキサイティングな「コンセプト(言葉)の変形」を引き起こしました。
これこそが、先に「不思議な共振」と先程書いたところの意味です。
この状態は、自分の少量の脳味噌から出てくるしかなかった限界ある造り方から脱出し、自分でさえ思い付かなかった方法で物を造ることのできる領域へ、無理なくスーッっと移ってしまうことができた感さえありました。
こうして、「コンセプトとカタチ」の間には、「キャッチボール」や「共振」、すなわち「運動」と呼ばれてしかるべき力学のあることに気付いたのです。
こうして、「コンセプトとカタチはどっちが先?」なんてことではなくなり、そのいずれもがいつも共振し、常に姿を変え変更され続けてゆく運動のプロセスに興味を持つようになりました。
頼るのは、「コンセプト」だけではなく、「カタチ」だけでもなかったのです。
そうではなくて、その両者の「間」にある、目に見えない手に取れない「運動」こそ、自分の依って建つ場所だったという訳です。
この「運動」なるものこそに、「己を越え出るひとつの契機」があるようにも思えたそうです。
世の中でもし天才と呼ばれる人達がいるとすれば、彼らの性質のひとつに、
「己の(能力の)越え方を会得している」
というものがあるのではないかと予想します。
凡人には、いつもちっぽけな能力しかありませんが、
その小さな己を何か他者なるものに託すことができ、それによってそこから創造のヒントを手に入れることができたなら・・・・。
その時には、もうその人は、その人自身(の能力)を越えてしまっているのです。
その人は、その人から遠くにあるものを、ある方法にてその人の近くにまで持ってこさせることができるのです。
創造という地点では、もはやその人であってその人ではない。つまり、無我こそ創造の秘訣なのです。
時に耳にする「啓示を受けたような瞬間」とか「ブレークした瞬間」というのも、実はこういう流れの中での出来事なのではないかと思います。
こうした「託し方」には幾つかの方法があります。
前田紀貞塾長のブログやESSAYで述べているような「自然」・「誤解」・「ルール」等々、まだまだ沢山あります。
しかし、どれも「偶然性」という言葉と無縁ではありません。
人は自分の脳でコントロール可能、把握可能なものの中で、日々生きています。でも、創造者というのは、その敷居を越えて、コントロール不能な領域に入っていかねばならないのです。
この「アンコントローラブル」であることが「偶然性」でもあります。
前田紀貞塾長が学生の時、こういう流れの一旦を感じた中で、
「物を造るってこういうことを言うのかもしれない・・・」
とその時初めて思いました。
「造る」とは「自分で造る」ことではなかったのです。
極端に言えば、「己を殺す」ことでもあったのです。
ただ当時の段階では、まだまだそれは頭の中での理解に過ぎませんでした。
ただ「わかった」だけだったに過ぎなかったのです。
そして当然のことながら、未だにそれを「知る」ことはできていません。
ここに、「ヴィトゲンシュタイン」という映画からの一節を引用します。
「ヴィトゲンシュタイン」とは、オーストリア生まれの論理学者であって、若い頃は、世界の一切を言葉・論理でパーフェクトに記述し尽くそうというガチガチの欲望に占領されていましたが、晩年はそこからシフトすることで、世界に関しての新しい眼差しを持ち得た人です。
*****************************************
世界をひとつの論理にしようとした若者がいた
頭のいい彼はその夢を実現し 一歩下がって出来映えを見た
それは 美しかった
不完全も不確実なものもない世界
地平線まで続くきらめく氷原
若者は自分の世界を探検することにした
踏み出した彼は仰向きになって倒れた
摩擦を忘れていたのだ
氷はツルツルで汚れもなかった
だから 歩けない
若者はそこに座り込んで涙にくれた
でも年をとるにつれて彼にはわかってきた
ザラザラは欠点でなくて 世界を動かすものだと
彼は踊りたくなった
*****************************************
「ツルツルの氷」 と 「ザラザラの摩擦」
「座る」 と 「踊る」
わかりますよね?
これこそが、コンセプトとカタチ、頭と手、原因と結果、に他なりません。
また、20世紀初頭の(非)芸術家であったマルセル=デュシャンは、
その生涯最大の作品「大ガラス」の制作にあたって、「グリーンボックス」という作品を「対」として添付しました。
「大ガラス」と「グリーンボックス」は、「ペア」で鑑賞されるようにできています。
また、「グリーンボックス」という作品は、簡単に言えば「大ガラス」の注釈書になります。
この場合、「グリーンボックス」(写真左)が「コンセプト」であり、「大ガラス」(写真右)が「カタチ」ということになります。
作品が作品を説明する。
しかし、デュシャンにとってのこの2つの作品の関係は、そんな簡単なものでなかったことは明らかです。
マルセル=デュシャンという人は、今でも尚、まだまだ解明され尽くされることがない、というか、永遠に解明され続けるような人ですから、彼の生涯最大の作品がそう簡単にひとつの言葉に還元されてしまい理解されてしまう方がおかしいのです。
その証拠に、批評家の解釈は千差万別です。
ただ、この「大ガラス」と「グリーンボックス」が、互いに補完的な関係にあったことだけは間違いありません。
「補完的な関係」とは、キャッチボールであり、共振であり、互いが互いを包み合う関係であり、部分と全体が交代する関係とも言えます。
これらいずれもが「運動」です。
それは、デュシャンという人が何よりも古典的な芸術概念、古典的な芸術家の振る舞い、古典的な芸術の在り方を嫌悪しており、それを壊そうとし続けてきた人であったことに由来しています。
(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)
前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/
実務プロコース第2回目:建築家は「世界」をどのように観ればよいのか?
第二回目:建築家は「世界」をどのように観ればよいのか?
さて、今週はいよいよ実際の講義のスタートです。
第一回目のテーマはズバリ、
「建築家は“世界”をどのように観ればよいのか?」
です。
建築家とは普通の理解では「建物を設計する人」のことを指しますよね。
でも、前田紀貞塾長は「それだけでは充分ではない」と言います。
つまり、「建築家と言われるには、その先に何が必要なのか?」についての話がされました。
塾長は、かつての姉歯の偽装問題についてとても心を痛めています。ああした人を建築家と呼ぶか否かは別の問題ですが、しかし、建築家というものへの認識が、今の社会だけでなく建築界でもあまりに不足している、と言います。
まず、
建築(Architecture)の語源は、
「アルケー」(原理)と「テクネー」(技術)から来ている
ということ。
つまり、「建築とは原理を知る技術である」ということだそうです。
建築がギリシア・ローマ時代まで遡ったとき、
その時代の建築家(Architect)というものは、建築を作り、彫刻を作り、都市を構想し、詩を書き、音楽も作曲しました。つまり、今みたいに単純に“建物だけを作る人”のことではなかった、ということのようです。
そういう沢山の異分野での作業を同時に成すことができるためには、「どの分野にも共通する原理」を勘として匂いを嗅げる能力が必要だったことは想像がつきます。
そうやって、どの分野にも共通する「原理」を知っていれば、その「原理という根」からは色々な色の「花」が咲いてくるのではないかと思います。
建築という花も、彫刻という花も、都市という花も、詩という花も、音楽という花もです。
だからこそ、その「根」という「原理」を知ることが必要なのだと思います。
前田紀貞塾長は、
「今の時代でも建築(Architecture)が持つべき質は、何ら変わることはないよ」
と言います。
とゆうか逆に最近では、そういう「原理」みたいなものこそが忘れられていたり、軽んじられたり、鬱陶しがられたりしていると思います。
「原理」(根) 云々よりも、派手で目立つ「花」だけがもてはやされているのが、今の建築界と言えるようにも思えます。
確かに反省してみれば、建築家を目指している私たちに関心があるものといえば、
雑誌やウェブサイトに掲載されているような“ビジュアルとしての建築”かもしれません。正直に言えばやはりそうです。
「建築をグラビア雑誌みたいにしか見ていないのではないですか?」
と問い詰められても
「はい、確かに・・・・・」
と言うしかありません。。。。。
前回 紹介しました前田紀貞塾長の経歴、つまり
「大学の時はデザインなど何一つ興味がなく、現象学や存在論の本ばかりを読んでいた」
といった話などを聞くと、私は、正直 退屈だと思わざるを得ません。
でも、前田紀貞建築塾での「建築論」の講義などを聞けば、毎回、本当に目から鱗なのも確かです。
それは、そういった本物の知性に触れる機会が自分たちの大学時代には皆無だったから、ということです。しかも、そういうことを教えてくれる先生が誰一人として居なかった、、、、というのも現実でした。
最初の頃は、
「建築空間を設計する時に、何で存在論や禅思想や非線形科学や位相幾何学やC言語や平均律やマルセル=デュシャンやタルコフスキーが必要なんだ?」
というのが、正直な自分の気持ちでした。
口に出しては言えませんが。。。。
でも、少しずつですが今回の前田紀貞塾長の
「建築とは原理を知る技術である」
ということを聞くと今は、豪華な花ばかりを求めてしまう自分たちの方向が薄っぺらく思えてきてしまいます。
それは、塾長に言わせれば、
「ちょっとだけ、創作者としての格が上がったからなのだ」
ということになるのだと信じています。
ちょっと脱線しますが、、、、
建築家と言われている人達の中でも、そういう「原理」を求めようとしている人たちばかりなのか、、、、、
これは実はとても気になることです。
建築の専門誌に載っている作品への解説文を読んでも、確かにその設計者のデザインに関しての方法論や技術の解説などは目にしますが、
そうではないもっともっと深い根の部分を触ってくるような、
例えば、
「存在とは何か?」「美とは何か?」「自然とは何か?」「都市とは何か?」「身体とは何か?」「創作とはいかにして可能か?」「生きるとは何か?」・・・・
等といった骨太な問いかけへの匂いがなかなかしてこないのが、実は最近特に私が感じてしまうことです。
そこでの個別の「各論」は見えてくるのですが、その人の建築を支えている「総論」みたいなものが見えてこないという感じです。
例えば、「自然」のことをコンセプトに上げる建築家の人達は、今、沢山いるように思えますが、
「何故、その建築家が“自然”について取り上げるのか?」
といった根本的な部分での充分な説明を目にしたことがありません。
簡単に言えば、「自然とは何か?」という根が、そこから見えてこないといことです。
私が前田紀貞塾長の自然感のなかで一番衝撃を受けた言葉は
「コンピューターの中に自然はある」
というものでした。
これは建築塾のアルゴリズムコースの中での言葉でしたが、通常、「コンピューター」という冷たいものは、「自然」という暖かいものとは反対にあると思われます。でも、それが同じ位相であること、それを説明できる自然感にはびっくりした記憶があります。
前田紀貞塾長が言いたい「原理」はそういうことなのだと解釈しています。
さてそこで、塾長が問いかけをします。
「次のテーゼについて、あなたはどのような意見を持っていますか?」
というものです。
・「日本伝統文化の根は、わびさびなどに代表される“はかなさ”や“不在感”を根に持つ」
・「能が持つ存在感の喪失こそ、日本文化の本質である」
・「日本建築の最も本質的な部分は桂離宮のエッセンスの中にある」
・「建築を設計する際、それは都市と親密な関係を持つべきである」
・「人間が住まう建築では、ヒューマンスケールの扱いが大切である」
・「設計行為のなかでは、充分に検証されたコンセプトからフォルムが導かれるべきである」
・「建築家が創作する際、できる限り偶発的で偶然の形やプロセスが避けられるよう配慮されるべきである」
・「建築は使いやすくあるべきだ」
・「これからの新しい建築は、建築の消去が前提になるべきである」
まあ、簡単に言えば、賛成ですか?反対ですか?ということなのですが・・・
はい、皆さんはどうでしょう?
結果から言えば、前田紀貞塾長の答は
「このすべてが間違っている」
ということでした・・・・。
「君たちねえ、そのことの意味がわからないのであれば、建築の創作なんてできないんだよ。最後まで“まがい物”のままだよ。」
ということでした・・・・・。
実は私も、この殆どが「正しい」と思っていました・・・・・<(_ _)>
はて・・・・・・
最後に、今回のまとめとして塾長からあった話。
「建築の原理とは何か?」
の詳細について。
前田紀貞塾長はそれを5つの項目として話をしました。
①:未だ見ぬ世界を呈示すること
②:超越論的な眼差しを持つこと
③:現代建築についてのビジョンを呈示すること
④:東洋論理(無我・空・非)について知ること
⑤:別に工夫無し
これらは、また機会を改めてゆっくりと説明します。
今の自分の力量ではなかなか説明できません、すみません・・・
ということで、今回は終わりです。
来週は
第02回目:建築家は今の時代、何を「建築の問題」とすべきか?
-私たちが次に呈示すべき「現代建築」とはどのようなものなのか?実はこのことは、建築界でもなかなか問題にされることがありません。私たちは、いつまでも「近代建築の焼き直し」をしているのでは甲斐もありません。だからこそ、「現代建築」というものがどんなものなのか、そのことについて知らなくてはなりません。
についての回です。
お楽しみに。
では、また来週。
(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)
前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/
実務プロコース第1回目:概要
第一回目:実務プロコースでやること
前田紀貞建築塾の「実務プロコース」は、既に建築を職業としている人を対象として行われているコースです。
前田紀貞は大成建設設計本部出身という、建築家のなかでも少し特殊な履歴を持っています。
一般的な“建築家アトリエで修行をして独立”という純粋培養コースではなく建設業の現場監督として社会に出て初めての建築を学びました。
また、前田紀貞のいまひとつ特殊は、
大学の専門が(ハイデッガーや道元による)「建築論」であったこと
です。
このため学生の頃から、目立ちやすい“かたち”(花)ばかりを追い求める癖が付くことはありませんでした。
沈思黙考する時間が長かったことが、今の建築感や創作法へも由来したことと想像できます。
さて、前田紀貞アトリエでは事務所開設以来、設計行為を行うなかで一貫して「ルール」という概念が大切にされてきました。「ルール」とは、「建築が誕生してくる“理由”」を大切にする、とことに由来しています。
「格好いいから」「使い易いから」という表面的検証からだけではない、
【世界のなかに産み出されるべき建築】がどうしても誕生してこなければならなかった、その「根拠」を問おうとします。
簡単に言えば、空間や形が誕生してくる裏に、ひとつの「ルール」設定をする、ということです。
それは、サッカーが
「11人でやります、手を使ってはいけません、オフサイドは禁止です、、、、」というような「ルール」
というルールの下で行われているようなものです。
詳細は、アトリエのホームページを御覧ください。
そしてこの「ルール」は、最近では「アルゴリズム(アトリエ作品)」という方向に発展しています。
また、前田紀貞アトリエにとっては、「建設業」も「建築論」も「ルール」も「アルゴリズム」も同じ根からやってくるものと考えます。
加えて、私たちのアトリエでは、「典座」というバー(建築サロン)もやっていますが、こんなものまでもがアトリエの建築に必要不可欠なものとなっています。
さて今迄 「実務プロコース」には、社会に出て数年の方、既に御自身の事務所を主宰されている方、大手設計組織の取締役クラスの方々まで、本当に様々な方がいらっしゃいました。そのなかで、世代や立場を越えた皆の交流や縁も産まれてきました。
塾のコースとしては他にも、
などありますが、
それらとは一線を画す「実務者用コース」
簡単に言えば、前田紀貞が建築に関わるようになってからの35年間ほどのノウハウを惜しげも無く伝授するコースともいえます。
初日は、簡単にこれからの講義内容の紹介が為されました。今回は、ブログでもまずはその概要の紹介から。
第01回目:建築家は「世界」をどのように観ればよいのか?
-建築家はまずは「世界」をしっかり見ないといけません。視力0.5の人が「ある世界」を見ていたとしても、それは視力1.5の人が見ているそれより遙かに痩せているものです。当然のことです。同じことが、「創作の視力」でも言えるのです。見ているつもりが実は見ていない、そういうことです。では、「創作の視力」とは何か?そんな回です。
第02回目:建築家は今の時代、何を「建築の問題」とすべきか?
-私たちが次に呈示すべき「現代建築」とはどのようなものなのか?実はこのことは、建築界でもなかなか問題にされることがありません。私たちは、いつまでも「近代建築の焼き直し」をしているのでは甲斐もありません。だからこそ、「現代建築」というものがどんなものなのか、そのことについて知らなくてはなりません。
第03回目:“コンセプト(理論)と“かたち”(実践)の関係はどのようにあるべきか?
-「コンセプト」(理論)と「形」(実践)はいつも、建築を創る時に大きな分かれ目となるものです。これらをどう扱えばいいのか。無論、こういうことを言うからには、【コンセプト → 形】という、あまりに短絡的で古くさい図式ではもはや建築は捉えることができない、ということをお伝えしたいのです。
第04回目:「言葉」はどのように扱えばよいのか?
-コンセプトにしろ、プレゼンテーションにしろ、コミュニケーションにしろ、スタッフたちへの指導にせよ、すべての意志疎通は「言葉」を以て行われます。しかしながら、本当の意味での「言葉」を遣える者はごく少数であることも確かです。だからこそ、「言葉なんてそんなに問題にするべきことなのだろうか……」という考えになるのでしょう。しかし、「ああ、言葉ってこういうことだったのか……」という目から鱗になるに違いありません。
第05回目:プロ用のプレゼンテーションシートの効果的な作り方は?
-設計事務所というものは、意外なほどプレゼンテーションテクニックが低いことが通例です。建築とグラフィックデザインは違うものだと思い込んでいるのかもしれません。でも、ちょっとした工夫でプレゼンテーションが飛躍的に効果を持つようになるのです。
第06回目:創作や実務での“自己批評”とは何か?それはどのようにあるべきか?
-思想にしろデザインにしろ、今、自分が試作していること 創っているものが、創作世界のなかで一体どんな位置を締めているのか?どうしても自分自身の創作の道筋が見えない経験は無いでしょうか。それは山道の中で方位磁針も持たずに無闇に歩き回るようなものなのです。“自己批評”とはそんな創作の指針のようなものといえます。
第07回目:プロ用のCGの描き方について
-手書きのスケッチや絵画でも同じことですが、結局、CGであっても“絵心”が要となります。CGが絵として力を持つ、その効果的なテクニックについての伝授です。
第08回目:建築作品の実現にあたって「実施図面」とはどのようなものであるべきか?
-建築設計では、ただ単純に実施図面を描けばよいものではありません。最初の思想を如何にして図面に落とし込むのか。これは自動的に行われるものではなく、意識的にそれをすることが必要です。これができないと、「思想と形・空間」はいつまでたっても分離したままです。建築家として、どう図面に向き合えばいいのか、そのメソッドについてです。
第09回目:コンセプトとディテールの作り方のコツとは?
-ディテールを「美しい納まり」と考えているだけでは、本物の建築に近づくことはありません。それが、建築家の思想とどうリンクするのか、どう空間が存在してくるのか……。そうした視点からこそ、ディテールは検証されるべきなのです。
第10回目:見積書への対応、提出された見積もり金額を減額するコツは?
-いつも頭を悩ませる金額オーバーの調整……。これがうまくできないと、結局は建築家の提案すべき思想が実を結ぶことはありません。工務店や建設会社から出てくる数量や数字を如何にして減額するか、そのテクニックについてお話します。
第11回目:現場監理行為で重要なこと
-設計事務所と工務店/建設会社の向かうべき方向が違うことは多々あります。建築物の品質について、工事に関わる予算について、等々……。それら、互いに利害が同じではない人たちとどのように上手にやってゆけるのか……。そして更に、どのようにして困難で面倒臭い施工を実施へ漕ぎ着けるのか……。妥協するでもなく強要するでもない、その方法についてお話します。
第12回目:瑕疵を作らない為のメソッド
-瑕疵は、設計事務所が一番起こしたくないもののひとつです。しかしながら、設計者の知識不足、現場との折衝不備、クライアントへの説明不足、各人の不注意などが原因で生じてしまうのも事実です。よって、これらをできるだけ生じさせない為の工夫・注意点についてお話します。また、最悪の場合、瑕疵が生じてしまった場合、建築家はどのような対処を引き受ければよいのか、そうした心得についても教示できることと思います。
第13回目:これだけは建築家が知っておくべき法律の基本
-設計事務所の行う事業のなかには、建築基準法のみならず、設計/監理のなかで生じてくる様々な問題、契約、支払い、インフォームドコンセント、工務店/建設会社とのコミュニケーション、瑕疵の対応、その他沢山の法律知識が必要となってくる局面があります。建築家がまずは最低限知っておかなければならない法律の知識について、わかりやすく説明します。
第14回目:スタッフ教育の作法
-スタッフが“従業員”である限り、本当の意味で建築家として事を成すことは難しいでしょう。すなわち、スタッフとある意味、「家族」のような関係になるにはどうしたらよいのか。更に言えば、建築家として人として何を大切にすればよいのか、等についての回です。
第15回目:現場セルフビルド工事の方法
-予算配分を調整してゆくと、必然的に設計事務所のセルフビルドになる分野が発生してくることがあります。しかし、中途半端な知識での「施工」は上質に事が運ばないばかりでなく、後々の不具合をも引き起こし兼ねません。設計事務所が最低限 行うことのできる実践的セルフビルドについて紹介します。
第16回目:所長とはなにか?
-建築家とは、単なる所長ではありません。どういう人格を持っていればよいのか、日常の些細な事柄にどう対処するべきなのか、スタッフたちとはどのような関係を築けばよいのか、等々についてです。
第17回目:ホームページデザインの方法(HTMLの書き方)
-ホームページを外注するには莫大な費用がかかります。よって、デザイン性を保ちながらも最低限 素人でできること、すなわちHTMLを書けるようになることでのホームページ制作について伝授します。
第18回目:設計者自身でできる竣工写真の撮影方法
-竣工写真もいつも設計事務所を悩ませるもののひとつでしょう。建築写真家に依頼すればその成果品が素晴らしい分、当然、費用はかかります。また正直な話、版権に費用がかかることもなかなか辛いものです……。それらは建築写真家の能力への対価ですから当然のことではあります。ただ、最近のデジタルカメラが高性能になってきたことにより、機械 ひとつあれば、ホームページに掲載できる程度のものが撮れるようになってきたことも事実です。竣工写真ビジネスもやっている前田紀貞アトリエでの、素人から始められる竣工写真の秘伝を伝授します。
こんなところが概要となります。
これから半年間、これらについての詳細が週ごとに明らかにされてゆきます。
私たちスタッフも、改めて体系的にそういう内容を聞くことができることを、とても楽しみにしています。
では、これから半年間、このブログ共々、どうか宜しくお願いいたします。
(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)
前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/