実務プロコース第5回目:小学生でも創れる建築(建築の自己批評)
第05回目:制作する自分はどっちへ向いている?(自己批評)
さて、第5回目:前田紀貞建築塾 実務プロコースは
「自己批評」についてです。
これは、建築家として創作をする時に、あなたはどっちの方向へ向いていますか?ということを「自分で自身のことをわかっておきましょう」という教えです。
例えば、野球をプレーするにしても、あなたがどれだけバッティングの為に腕や脚の筋力を鍛えたとしても、
ヒットを打っておもむろに「三塁」に向かって走り出したのでは何の意味もありません (-_-;)。
折角の日々の努力が全くの無駄に終わってしまいます。建築でも同じことがあるというのです。
うん、確かに、建築をするには沢山の修練がありますが、
それが最後にはとんちんかんな方向へ向かってしまうのでは、元も子もないということになりますね。
そんな、創作に於ける“行き当たりばったり”が無いように、ということ
これが「自己批評」ということなんですね。
まず、塾長から話されたのは、「合理主義とロマン主義」の話でした。
なんか建築史っぽくて硬い感じの言葉ですが、でも、これは驚くほど簡単なことでした。
まず、
① 合理主義とは、形式性・ルールによる構成が成されている建築のことを言います。
それは、他者と共有できる方法で作る作り方でして、それ故に、普遍性があって理性的なものをいいます。
例えば、ギリシア建築・ローマ建築・ルネサンス建築などはこれに入り、この極が「フォルマリズム」と言われるもののようです。
具体的に「他者と共有される」為には、西洋なら黄金比、東洋ならカネワリなどの寸法比例体系といった標準(スタンダード)を元に創作をするというような方法がとられます。
この方法では、標準(スタンダード)が基盤となっていますから、
自ずと「制作の根拠」は他の人と共有されますし、それ故に対話(ダイアローグ)になりやすいということです。
つまり、そこには根拠となる「ルール」や「基準」があります。
「ああ、これわかるよ!!」
と言われ易い方法ということですね。
一方で、
② ロマン主義とは、建築の創作が「私」という個人的な情念によって導かれるようなものを言うようです。それは、
「俺が良いと思っているのだから良いのだ」
という理屈になります。
つまり、こちらの方では、
創作された結果が共有できない場合も往々にしてありますが、
その分、固有性があって情念的でもあるものとなります。
反対に、
「制作の根拠」が共有されない場合には、
ただの独白(モノローグ)的にならざるを得ないこともあります。
創作の根拠が「私」にしか無いのですから。
例としては、ゴシック建築やロココ建築(後期バロック)、そしてガウディーのようなものがこちらに入ります。
さあ、わかりやすさを優先して大雑把ではありますが
こういうふうに二つに区分けしますと、合理主義の方が正義の味方のように思えてしまいますよね。
そしてロマン主義は徒なデザイン偏重主義のようにすら映るかもしれません。
でも、前田紀貞塾長が言うのは、
「このいずれかに依ってもいけないのだ」
となります。
そう言われるとそうかもしれません。
「私だけが根拠である創作」(ロマン主義)は、熱過ぎて火傷しそうです。
でも、「皆と共有することだけを正義にした創作」も、皆との嗜好を合わせようと分析し過ぎて、理論的過ぎて味の無いか生焼けの料理みたいな感じかもしれません。
ではどうするのか???
そこで出されたのが
バロック
という概念でした。
これは、合理主義とかロマン主義のいずれにも依ることのない、中立的な立場の創作を指して言うようです。
塾長はこれは、世界中で見た建築の中でのトップクラスにあると言います。
確かに、ルネサンス建築のような規律ある寸法体系を残しているように見えます。
でも同時に、静かにうねるような曲面も同居していますね。
下の絵は講義で使われたものですが、
合理主義は正円。つまり、あるひとつの中心点から等距離にある点の集まり、
という理論的客観的なもので、誰にでも描くことができます。そして、この図形を嫌う人はあまり居ないと思います。
対して、ロマン主義は、一番右の不整形な形だと前田紀貞塾長はいいます。
ある人が「僕はマメ型が好きだ」といえば、それで終わりです。
そこに議論はありません。「何故、マメ型なのですか?」と問うことに意味はありません。それは個人の嗜好だからです。
でも、真ん中の「楕円形」とはどんな図形でしょうか?
そうです、これは一見、「個人的な好みの範疇」にあると思いきや、
「二点の中心点からの距離の和が等しい点の集まり」というルールも有しています。
これが、前田紀貞塾長の言う、両者の中間、ということなのだと思います。
そして、
両極を共存させる作り方を心がけることが創作の中で盲目にならない方法なのだ
となります。
「客観性だけに依ってもダメ」「主観性だけに依ってもダメ」ということです。
ただ、自分もよくよく反省すれば、実際に建築を考えている時には、
その場の勢いというか、自分の無知というか……、
自分が今、どんな方向で制作をしているのかがわからい状態で作ってしまっていると思います。
もしかしたら、「自分側に寄り過ぎているのかもしれない……」
もしかしたら、「社会や他者に迎合することを過度に意識し過ぎているのかもしれない……」
と「自己批評」してみる必要があるのでしょう。
いずれにしても、自分の創作が盲目的になんとなく行われてしまっていることが良いことである筈がありません。
今回の「自己批評」ということの意味、少しわかってような気もしました。
だから、私たちが建築の創作している瞬間に、「自分への自己批評」
「さて、今回のプロジェクトで自分はどちらへ振れているのだろう?」
という反省、つまり自己批評が大切になってくるのです。
言うまでもなく、上の振り子の絵で左が「合理主義」、右が「ロマン主義」です。
この後、前田塾長から、前田紀貞アトリエがこれまで創ってきた建築作品が
如何にして自己批評されながら成されてきたか、という経緯の説明がありました。
まずは、「CELLULOID JAM」という住宅作品です。
これは、形だけ一見すると、アトリエの情念だけで制作されたように見えますね。
確かに、それ以外に見えないともいえます (^_^;)
でも実は、その創作の根には「メビウスの帯」や「トポロジー」といった数学的な図形操作の概念が横たわっていることの説明がありました。
新作:プラスチックの建築(CELLULOID JAM) 前田紀貞の建築家ブログ/ウェブリブログ
に、このプロジェクトの詳細が書かれています。
確かに、これを読むと、これだけの自由な三次曲面の構成が、
緻密なルールや理論から導かれていることがよおくわかります。
それ故に、この形が任意で恣意的で個人の好き嫌いだけに留まらないのでしょう。
二番目は、名古屋の住宅であるEAST & WESTについてです。
これも、個人の手癖のようにクネクネしていますね。
これまた、
アルゴリズム建築 第二弾(EAST & WEST) 前田紀貞の建築家ブログ/ウェブリブログ
を参照してみてください。
この空間と形態が、どのようなものから導かれてきたのか、ということを。
因みに、この形はコンピューターによるアルゴリズムに由来しています。手で創られたのではなく、コンピューターが創ったもの、ということでした。
しかも、このEAST & WESTという住宅では、「部屋割り」をコンピューターが決定しています。なんと……
詳細は上のブログを。
最後に、
I REMEMBER YOUという住宅が紹介されました。
塾長は
「この形が出てきた時には、自分は心底驚いた……。凄いデザインだなあ……って。」
と言います。
つまり、この複雑な美しい形態も、
決して「私が好きですから」というロマン主義だけから出てきたのではない、ということになります。
というより、これまたコンピューターのアルゴリズムによっていますから、「私」ではない「他者」が創ったものといえる訳なんですね (^_^;)
詳細は以下にて。
アルゴリズム建築と作家性 (I remember you) 前田紀貞の建築家ブログ/ウェブリブログ
というような話で、
創作が「私」と(私以外の)「他者」が、どう混合チームを組んで作るか、という「バロック的な創作方法」の話でした。
考えてみるに、僕達は往々にして建築を創るときに、
「私が創ります」
という考えていることが多いですね。
というか、それ以外はどうすればいいの???と思ってしまいます。
でも、前田紀貞塾長は
「そういう時こそ、
誰が制作の根拠になっているのかの自己批評をしなさい」
と言います。
つまり、僕達は
「自分が創る」
については、なんとなくわかっているようでいても、
「他者が創る」
ことの意味がちっともわからないのです。
ちなみに、これを
「無我の創作」「無私の創作」
と言うようです。
もうひとつ、塾長がよく口にすることは
「創るとは創らないことである」
です。
正に、無我であり無私なんです。
通常、自分が知っている創り方をしているうちは、
「自分のポケットにあるデザイン技術」
だけを出していることになります。これが「私が創る」です。
でももし、
「自分のポケットに無い創作ができる技術」
を手にできたとしたら……
それはまるで、打ち出の小槌のような魔法みたいになるでしょう。
塾長が言うのは、創作に於けるこの打ち出の小槌の方法についてなのです。
それらの詳細な例として挙げられたのは
-(作ろうとせず)模型と遊んでみる
- 模型材料を変えてみる
- 違う筆を使ってみる(マチスの例)
などといったわりとわかりやすいものに始まり、
- 偶然・誤解を味方につける方法
(平面断面逆転、暗い部屋での技術、目を細めてのテクニック、違うパーツを使う、、、、)
- 他者に任せてみる方法
- ルール・アルゴリズムを設定してみる方法
- パターンを尽くしてみる方法(ズラしの方法)
などへも話が及びました。
詳細はここでは書ききれないので省略します。
さてさて最後になりますが、
前田紀貞建築塾が考案した
「サイコロ建築」
というものについて説明が成されました。
これは、創作する人にデザイン知識やテクニックがゼロであっても、
平均的な建築デザインを誰でもが創ることができる、という打ち出の小槌メソッドです。
簡単に言えば、サイコロを振って出た偶然の目によって、建築空間を創ってゆく方法です。
以下のように、サイコロを振るだけで、平面の形状、断面の形状が、どんどん複雑で豊かになってゆくのです。そういう「ルール」を備えた建築の方法こそが、「サイコロ建築」というものです。
このメソッドを知っておけば、
通常の大学生のレベルよりは少しだけ優れた程度の建築は誰でもができることになるといいます。
これぞ、
「建築は私が創る」
ということを拒否して、
「私など不在でも創れるよ」
つまり、
「ルールを設定しさえすれば誰でも建築なんて創れるよ」
ということの証拠にもなると思います。
因みに、以下は今年の夏に
小学生と中学生を対象として、前田紀貞建築塾で開催された「サイコロ建築講座」
の完成作品です。
冷静に見ても、この作品が建築を一切勉強したことがない小学生(六年生)の作品とは思えません……(^_^;)
自分より凄いものができているとすら思います……
いや、自分より凄いです…… (-_-;)
ということで、「合理主義とロマン主義」というもの、
その両方を身に入れることの大切さが、こういう実例を通してわかったように思えました。
すなわち、自分からは出て来ない「ルール」というものに身を委ねる方法、についてです。
(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)
前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/