実務プロコース第2回目:建築家は「世界」をどのように観ればよいのか?
第二回目:建築家は「世界」をどのように観ればよいのか?
さて、今週はいよいよ実際の講義のスタートです。
第一回目のテーマはズバリ、
「建築家は“世界”をどのように観ればよいのか?」
です。
建築家とは普通の理解では「建物を設計する人」のことを指しますよね。
でも、前田紀貞塾長は「それだけでは充分ではない」と言います。
つまり、「建築家と言われるには、その先に何が必要なのか?」についての話がされました。
塾長は、かつての姉歯の偽装問題についてとても心を痛めています。ああした人を建築家と呼ぶか否かは別の問題ですが、しかし、建築家というものへの認識が、今の社会だけでなく建築界でもあまりに不足している、と言います。
まず、
建築(Architecture)の語源は、
「アルケー」(原理)と「テクネー」(技術)から来ている
ということ。
つまり、「建築とは原理を知る技術である」ということだそうです。
建築がギリシア・ローマ時代まで遡ったとき、
その時代の建築家(Architect)というものは、建築を作り、彫刻を作り、都市を構想し、詩を書き、音楽も作曲しました。つまり、今みたいに単純に“建物だけを作る人”のことではなかった、ということのようです。
そういう沢山の異分野での作業を同時に成すことができるためには、「どの分野にも共通する原理」を勘として匂いを嗅げる能力が必要だったことは想像がつきます。
そうやって、どの分野にも共通する「原理」を知っていれば、その「原理という根」からは色々な色の「花」が咲いてくるのではないかと思います。
建築という花も、彫刻という花も、都市という花も、詩という花も、音楽という花もです。
だからこそ、その「根」という「原理」を知ることが必要なのだと思います。
前田紀貞塾長は、
「今の時代でも建築(Architecture)が持つべき質は、何ら変わることはないよ」
と言います。
とゆうか逆に最近では、そういう「原理」みたいなものこそが忘れられていたり、軽んじられたり、鬱陶しがられたりしていると思います。
「原理」(根) 云々よりも、派手で目立つ「花」だけがもてはやされているのが、今の建築界と言えるようにも思えます。
確かに反省してみれば、建築家を目指している私たちに関心があるものといえば、
雑誌やウェブサイトに掲載されているような“ビジュアルとしての建築”かもしれません。正直に言えばやはりそうです。
「建築をグラビア雑誌みたいにしか見ていないのではないですか?」
と問い詰められても
「はい、確かに・・・・・」
と言うしかありません。。。。。
前回 紹介しました前田紀貞塾長の経歴、つまり
「大学の時はデザインなど何一つ興味がなく、現象学や存在論の本ばかりを読んでいた」
といった話などを聞くと、私は、正直 退屈だと思わざるを得ません。
でも、前田紀貞建築塾での「建築論」の講義などを聞けば、毎回、本当に目から鱗なのも確かです。
それは、そういった本物の知性に触れる機会が自分たちの大学時代には皆無だったから、ということです。しかも、そういうことを教えてくれる先生が誰一人として居なかった、、、、というのも現実でした。
最初の頃は、
「建築空間を設計する時に、何で存在論や禅思想や非線形科学や位相幾何学やC言語や平均律やマルセル=デュシャンやタルコフスキーが必要なんだ?」
というのが、正直な自分の気持ちでした。
口に出しては言えませんが。。。。
でも、少しずつですが今回の前田紀貞塾長の
「建築とは原理を知る技術である」
ということを聞くと今は、豪華な花ばかりを求めてしまう自分たちの方向が薄っぺらく思えてきてしまいます。
それは、塾長に言わせれば、
「ちょっとだけ、創作者としての格が上がったからなのだ」
ということになるのだと信じています。
ちょっと脱線しますが、、、、
建築家と言われている人達の中でも、そういう「原理」を求めようとしている人たちばかりなのか、、、、、
これは実はとても気になることです。
建築の専門誌に載っている作品への解説文を読んでも、確かにその設計者のデザインに関しての方法論や技術の解説などは目にしますが、
そうではないもっともっと深い根の部分を触ってくるような、
例えば、
「存在とは何か?」「美とは何か?」「自然とは何か?」「都市とは何か?」「身体とは何か?」「創作とはいかにして可能か?」「生きるとは何か?」・・・・
等といった骨太な問いかけへの匂いがなかなかしてこないのが、実は最近特に私が感じてしまうことです。
そこでの個別の「各論」は見えてくるのですが、その人の建築を支えている「総論」みたいなものが見えてこないという感じです。
例えば、「自然」のことをコンセプトに上げる建築家の人達は、今、沢山いるように思えますが、
「何故、その建築家が“自然”について取り上げるのか?」
といった根本的な部分での充分な説明を目にしたことがありません。
簡単に言えば、「自然とは何か?」という根が、そこから見えてこないといことです。
私が前田紀貞塾長の自然感のなかで一番衝撃を受けた言葉は
「コンピューターの中に自然はある」
というものでした。
これは建築塾のアルゴリズムコースの中での言葉でしたが、通常、「コンピューター」という冷たいものは、「自然」という暖かいものとは反対にあると思われます。でも、それが同じ位相であること、それを説明できる自然感にはびっくりした記憶があります。
前田紀貞塾長が言いたい「原理」はそういうことなのだと解釈しています。
さてそこで、塾長が問いかけをします。
「次のテーゼについて、あなたはどのような意見を持っていますか?」
というものです。
・「日本伝統文化の根は、わびさびなどに代表される“はかなさ”や“不在感”を根に持つ」
・「能が持つ存在感の喪失こそ、日本文化の本質である」
・「日本建築の最も本質的な部分は桂離宮のエッセンスの中にある」
・「建築を設計する際、それは都市と親密な関係を持つべきである」
・「人間が住まう建築では、ヒューマンスケールの扱いが大切である」
・「設計行為のなかでは、充分に検証されたコンセプトからフォルムが導かれるべきである」
・「建築家が創作する際、できる限り偶発的で偶然の形やプロセスが避けられるよう配慮されるべきである」
・「建築は使いやすくあるべきだ」
・「これからの新しい建築は、建築の消去が前提になるべきである」
まあ、簡単に言えば、賛成ですか?反対ですか?ということなのですが・・・
はい、皆さんはどうでしょう?
結果から言えば、前田紀貞塾長の答は
「このすべてが間違っている」
ということでした・・・・。
「君たちねえ、そのことの意味がわからないのであれば、建築の創作なんてできないんだよ。最後まで“まがい物”のままだよ。」
ということでした・・・・・。
実は私も、この殆どが「正しい」と思っていました・・・・・<(_ _)>
はて・・・・・・
最後に、今回のまとめとして塾長からあった話。
「建築の原理とは何か?」
の詳細について。
前田紀貞塾長はそれを5つの項目として話をしました。
①:未だ見ぬ世界を呈示すること
②:超越論的な眼差しを持つこと
③:現代建築についてのビジョンを呈示すること
④:東洋論理(無我・空・非)について知ること
⑤:別に工夫無し
これらは、また機会を改めてゆっくりと説明します。
今の自分の力量ではなかなか説明できません、すみません・・・
ということで、今回は終わりです。
来週は
第02回目:建築家は今の時代、何を「建築の問題」とすべきか?
-私たちが次に呈示すべき「現代建築」とはどのようなものなのか?実はこのことは、建築界でもなかなか問題にされることがありません。私たちは、いつまでも「近代建築の焼き直し」をしているのでは甲斐もありません。だからこそ、「現代建築」というものがどんなものなのか、そのことについて知らなくてはなりません。
についての回です。
お楽しみに。
では、また来週。
(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)
前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/