前田紀貞建築塾 実務プロコースの記録

前田紀貞建築塾での「実務プロコース」の様子を追ってゆきます

実務プロコース第4回目:「言葉」はどのように扱えばよいのか?

第04回目:「言葉」はどのように扱えばよいのか?

 

さて、第四回目:前田紀貞建築塾 実務プロコースは「言葉」についての講義、です。

 

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「言葉」とは、産まれた時に学んだことで、誰でもが口にできる既に習得済みのことだと思っている、誰でもが正しく使えるものだと思っている、これが通常の理解でしょう。

 

でも、「真の意味での建築家」として生きる為に必要な大切な要素のひとつとして、この「言葉」の遣い方があると、塾長は強調します。

 ただ、ちゃんとした「言葉」を遣うことができるには、技術でそれを手にしようとしては意味が無いのだとも言います。

それでは、言葉はただの“表面のマナー”になってしまうからです。

 

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例えば、朝、事務所に先輩が来たら「おはようございます」と言うのも、技術とか知識ではありませんね。

よくよく考えてみれば、それは自分がその先輩や先生が大好きだから、だからその人に「おはよう」と言ってあげたいからです。

 

或いは、諸先輩方より事務所へ早くやってきて、先輩方が来る前に掃除したりするのも、それが「当番」だからではありませんね。

そうしてあげて綺麗な机で、綺麗な灰皿で、そしてコーヒーひとつでも心を込めて先輩にお出しすれば、大好きでお世話になっている人が気持ちよくその一日を送ることができるだろう、と思えるからです。

 

実は、こういうことすべてが建築家と依頼主の間でも同じなのです。ちょっとわかるでしょう。

 

 

ところで、そんなふうにしてコーヒーをお出しした時、

その先輩から「ヌルい!!」と言われたら、あなたならどう思うでしょう。

実はこれが建築家としての態度(依頼主との)の分かれ目にもなる態度であり所作なのです。

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ある人は、

「折角、こっちがわざわざコーヒー出してやってんのに、この人は何ワガママ言ってるんだ!!」

となるかもしれません。

それは、「当番」という義務でやっているからですね。であれば、いきおいそういう思い方になるでしょう。

 

でももし、大好きな人の為にそれをお出ししているという気持ちのなかで、「ヌルい!!」と言われたらどうでしょうか?

 

そう、

「失敗した、コーヒーを入れた後に、自分は電話に出てしまっていたのに、その後そのままお出ししてしまった……。いやいや、自分が実に気遣いができなかった……。大好きなのに、その気持ちが伝わらなかった、悔しい……。二度は無いぞ!!」

となることでしょう。

 

そうなんです、人はいつも自分を正当化して生きているものなのです。

人を自分の中に住まわすことができないのです。

 

逆に言えば、「ヌルい!!」という言葉は、後輩の不細工をしっかりしてやろうという、先輩方の温かな心でもある訳です。

「そんなことも気遣えず、逆ギレしているような稚拙では、建築はできないんだよ」という。(先輩というものは、敢えてそういう言い方をすることで、後輩たちが“関門”を潜ってこられるか、という試しをするもんなんですね)

それも知らずに、自分に汚い泥のこびりついたままの心で世界を生きてしまっている、それが普通の僕達なんです……。

 

ですから、

言葉というものは、そういう心のありかたの中から良くも悪くも口から飛び出してきてしまうものだということです。

つまり、言葉こそがあなた自身の心や人柄を映すものだということなのです。

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いやいや、こういうことは言われればとても簡単なことですが、

今そのことに自分で気付いており、更にはそれを実践に移せるか、と言われればとても難しいことだと思います。

まず無理だとも言えるでしょうね。

 

ということは、人間としての最低限ができないなら、真の意味での建築家なんてまず無理……、

ということになってしまう訳でして……。

 

これこそが「言葉とは何か」ということの神髄です。

 

 

もしあなたが、これから建築家を目指すのであれば(僕もそうですが……)、

こういう生活の中のひとつひとつの自分の態度とか眼差しこそが言葉に現われて来る、ということを知っておいた方がいいですよ、そんなお話でした。

 

正しい言葉が遣えるということは、「僕はあなたが大好きなんですよ」ということを相手へ伝える術(すべ)でもありますし、或いは自分なりのひとつのケジメかもしれません。

 

自分が飼っている可愛い犬の為には沢山のことをしてあげたくなります。それと何も変わらない、とても原始的な感情なのだと思います。

だからこそ、大切だと思います。

正に、「実務プロコース」にはうってつけの話です。

 

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因みに、前田紀貞塾長が頻繁に僕達に言うのは、

「今は、そういう“教科書”を皆が疎かにしてしまうんだ。それより、もっと技術的で難しい応用問題ばかりを、皆、やろうとしている……」

ということです。

 

うんん、確かにその通りだと思います。

 

設計事務所に入って、掃除や灰皿洗いなどしていることなど、建築とは関係ないことをやっている無駄な時間だ、とどこかで思ってしまってはしないでしょうか……。

正直、自分にもそういう瞬間があります。

 

そのへんをリアルに本当に身に染みて感じて知ることは、すぐにはできない方が普通かもしれませんが、そういう怠けを続けているうちに、きっと「本物の建築」からどんどん遠くなってしまっているのだと思います。

だから、その本当のところを疎かにしてしまっている自分を誤魔化す為に、応用問題に走ってしまうのだとも思います。

勉強でも、実はそういうことがあると反省します。

 

 

 

 

ところで、

前田紀貞アトリエの打ち合わせスペースにはある言葉がかかっています。

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これ、「別に工夫無し」

と読みます。

 

作者は鎌倉から室町時代にかけての禅僧ある夢窓疎石です。

疎石は禅僧でもありましたが、作庭師でもありました。今で言えば、ランドスケープデザイナーです。

 

で、意味はといいますと、

「別に工夫なんてしなくていいんだよ」

ということではなくて、

 

「もし、あなたが作庭(ランドスケープデザイン)をしようと思うなら、作庭という専門だけを特工夫してはいけませんよ」

 

ということだそうです。

もっといえば、

「創作(作庭)の根には、生きることのすべてがある(作庭だけには無い)」

ということです。

 

これは、よく前田紀貞塾長が言う

「すべてが建築だ」

とか

「全部ひっくるめて、まるっと建築」

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ということと同じです。

 

 

 

その心は…………

 

建築とは、ある「秩序」を作り出すことですね。

ひとつの何も建っていない真っ新で無の敷地に、そこに壁とか床とか屋根、そしてガラスなどを入れて“秩序を作り上げること”に他なりません。

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では、その「秩序の作り方」はどこから来るのでしょうか?

多分、その人その人がそれまでの経験で勉強した方法、或いは、雑誌などで見た建築家のスケッチなどからやってくるのでしょう。

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でも、ここでちょっとだけ想像してみたいと思います。

「それだけでは、少しばかり貧しくないだろうか……」

と。

 

そうですね、建築が建築だけを参照にしていたら、そういう狭い分野からの引用くらいはできるかもしれませんが、それ以上でも以下でも無くなってしまいます。

つまり、昨日までに作られてきた建築の“焼き直し”をすることに留まってしまう訳です。

決して「未だ見ぬ新しい建築」ができる訳ではない……。

 

であればどうしましょう。

ある人は「映画」を参照にするかもしれません、或いは「演劇」を参照にするかもしれません、或いは「音楽」を……

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疎石が言うのは、そういう流れのなかに、もっともっと基本的な毎日の所作を入れてみなさい、ということだと、僕は思います。

そんな特別な分野を参照しなくとも、一番大切な気付きの根幹は取るに足らぬ毎日の中にあるのだ

ということです。

それが掃除であり、洗濯であり、炊事であり、、、、

人は目の前のものは見えない習性があります。いや、目の前のものこそを疎かにしがちなのです。

 

建築家という生き方とは、目の前にある世界の裏側にある「秩序」に気付くことなのでしょう。

それには、何も特別なことではなくて、

普通のことを普通にやる、最低限をきっちりやる。

これだけですべてOKなのです。

 

でもただひとつだけ、

「普通のことをやるには、普通にしていてはいけない」

ということです。

「普通とは、想像を絶する鍛錬があってやっと手にできるものだ」

ということが忘れられてはいけないのだと思います。

 

 

 

 

そうしたら、

「すべてが建築だ」

とか

「全部ひっくるめて、まるっと建築」

なんて、凄くよくわかってきませんか??

 

それが建築なんです。

 

「建築なんて、何も凄く専門的な職業では無いよ」、と塾長はいつも言います。「だって、四則だけでできるじゃないか」とも。

これが、「応用問題を解くことではない」ということです。教科書を生きることなんだと言います。

 

相手の本当の気持ちのありかもわからない人が、どうして建築などできるのでしょうか……

 

「建築家にとって大切なのは、己の中に他人を住まわせることだ」

これまた前田紀貞塾長の言葉です。

 

建築は一生に一度の大切な事業です。

だから、依頼主は皆、とても真剣に事にあたってきます。

それを、こちら側だけが「職業」として考えてしまったら……

 

釣り合いが取れませんね。

 

だから、

これまた前田紀貞アトリエに張ってある言葉

「建築は職業ではない、生き様である」

ということなのだと思います。

 

 

 

 

今回はそういう生き様こそが、結果として「言葉」になる、というお話でした。

 

 

 

実際の講義では、その詳細の説明が成されましたが、沢山あり過ぎてここではインデックスだけ紹介しておきます。

基本は

・ 言葉とはキャッチボールである

・ 言葉とは世界をスケッチする手段である

という二編からでした。

 

 

 

 

ただそうは言っても、最後には(言葉を遣う際の)「応用問題」にも言及されました。

 

例えば、

メディア雑誌などに書く「コンセプト文」について、その書き方の説明です。

 

例を挙げれば、「新建築」に書く場合、「日経アーキテクチュア」に書く場合、「GA」に書く場合、の違いなどについてです。

 

いずれも、そのメディアがどういう読者を持っているのか、どういうことを期待してくれているのか、ということ、「その道筋」を心得ることの大切さについて話が成されました。

これも「言葉のキャッチボール」ということになるのでしょう。

 

ただどれも、「樹形図を書きなさい」ということでは同じでした。

文章を書く為の「骨格」ということなのでしょう。粘土細工の「芯棒」みたいなものです。

CELLULOID JAMというプロジェクトを例にとって、その文章の成り立ちが説明されました。

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他にも、文章構成の基本として、

主語/述語/目的語、分節、括弧、文頭、強調、サイズ、フォント、断定、半角あけ、文字バランス、行あけ、話題緩急、内容の括り、例示、類語辞典、身体部位の表現、略、句点の位置、キーワードの統一、和語・古語、ラフな表現、文末の締め、象徴する言葉の発明、文字に込められた気持ち、写真、文字の反復

等にもコメントがありました。

 

 

最後に、「講演・レクチャーの基本」という項目で今回は終わりでした。

ありました。

人の前で話をすし納得してもらう為に、「十項目の鉄則」が披露されました。

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宿題としては、

「自分の先生から宴に招待された時にお出しする返信の書簡」

というものが出されました。

各人、今日の指導を聞きつつ、自分なりに書いてみること。

 

さあ、どんな感じになることでしょうか。

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(前田紀貞建築塾塾生団体 AA)

前田紀貞アトリエ:http://maeda-atelier.com/